落陽記
落陽記
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「美しいと思っていたのだ」
「......」
「まるで女の泣き声のように聴こえないか」
李敬健は隷の言葉に耳を澄ませた。何も聴こえない。ただ雪がひんひんと空気を冷やしていくだけである。
「人為的な雪だ」
「はぁ......」
「玉兔公主が空を見上げて泣いているのだろう」
隷が手を宙に伸ばし、袖から白い腕が見えた。日の印。太古の昔の文字が刻まれて、目の前の人がただの人間ではなく、偉大なる九つの太陽のかんなぎであることを示していた。
「姫は離宮に戻るのか」
「さあ、そればかりは私めの知るところにはございません」
雄元はこのまま絽陽にとどまるような気が李敬健にはした。既に王との仲は誤摩化しきれないほど険悪であったし、それを雄元が蓮杏姫と結婚して修復するようにはとても思われなかった。
「金烏(きんう)公子、お風邪を召されます。どうぞ室内にお戻り下さいませ」
「風邪?」
隷が振り返って鼻で笑った。そして肩に積もった雪を払うと、再び遠くに目をやった。
「例の南門の前から出てきた首のことだが」
「はい」
「あれは私に渡して欲しい」
「......」
「お前が持っているようなものではない」
「......」
本来なら雄元の指示を待ち、回答すべきことであった。だが即答しなかったのはその命を仰ぎたかったのではなく、南門から出てきた首が事実、隷の母親のものであるならば、出来ることなら返してやりたいと李敬健が思ったからであった。
「南門の首だけでよろしいので?華応安の首もありますし、公子志旦の生母華妃の首が絽陽(ろよう)から送られてまいりました。北門もそろそろ首を差し替えたらいかがでしょうか」
「......そうだな。父上もお疲れであろう」
李敬健は隷の言葉の意味が分からず、伏していた視線を上げて白髪の人の背を見た。
「北門には父、孝哀王(こうあいおう)の首がある」
「まさか?!では霊廟に祀られている王のご遺体には?!」
「首なしの胴が横たわっているのだろう」
「まさか、そんな畏れ多いことは......」
「嘘ではない。私がこの手でこの離宮に結界をつくるために呪を施して埋めたのだから」
言葉を失った李敬健に対して、隷はまるでなんでもないことのように感情の欠片もない横顔をしていた。
「だが、父上の代わりが華妃では心もとないね。西夷も当然攻めてこよう」
白い髪が振り向きざまに揺れた。
「もう少し立派な首が欲しかったが」
「......」
「まあいい。私にはどうでもいいことだ。守るだけが全てではない」
李敬健は深く頭を下げる以外に何とそれに答えてよいか分からなかった。靴の上に積もった雪が溶け出して急に冷たく指先に触れた。
「西夷はどうなったのか?」
「西夷とは未だ小競り合いをしております。蘇学も健闘しておりますし、主力は西に引き上げましたので、本格的な冬になる前には終わることかと」
「そうか」
「公子の目にはどのような未来が視えているのかお教え頂けますでしょうか」
「なんとも言えない。気と気が大地で争っている」
灰色の瞳が雲を越え、紫の気をとらえた。そして赤い大小の気があちらこちらから上がっているのを感じると隷は目を開けた。
「首を返してくれるなら李敬健、お前に礼をしよう」
「一体何をくださるとおっしゃられるので?」
「お前は一体何を一番大切に思って生きているのか」
「私めは陶将軍の臣であり、将軍こそが私の命だとおります」
「ならば、迷ったときには陶将軍を裏切ることだ」
「......」
「そうすることで雄元は助かる」
李敬健は訝しむ視線を隷に向けた。だが、その視線に隷のそれが合わさることはなかった。白虎がどこからともなく現れると、牙を向いて軍師を睨んだ。