落陽記

 

67


玉兔はその朝、白衣に着替えた。髪も結わずに垂らし髪にし、化粧も落とした。ただ額に一つ蓮の葉を描き、雄元にこうて寧公の宝剣を得た。本来なら血の穢れのない剣こそが相応しいが、玉兔は魂に叫びを込める必要があった。


乙女である香(こう)と莠(ゆう)の姉妹にも同じような姿をさせた。


「本当に雪が降るのでしょうか」


「降るわ」


地にはべる怒りをもって天に奏上するのだと、玉兔は二人に説明した。そして裸足のまま、正殿の前の四神獣が刻まれた石畳の上に立つと、寒さのせいで紫色になった唇が震えた。


キュとそれに耐えるように口をつぐんだ玉兔は、宝剣を鞘から抜くと、石の玄武前で両手でそれを掲げ頭を下げた。玄武は北を司り、冬と水の象徴でもある。彼女は瞳を閉じた。西の兵。馬の蹄の音。兵を鼓舞させる太鼓の音。鎧がすり合わさる音。それが近づいてくる。


そして、金烏宮へと向かったであろう雄元を思った。出来るだけ無感情に朝露の乾かぬ草を踏みしめていく車輪と陶家の朱の旗を玉兔は視た。


かなしみ。なぜそんな男のために天に祈らなければならないのか。矛盾。


玉兔は剣を頭の上に掲げたまま瞳を上げた。


―私は人ではない。


日の印を宿す姫は天を見上げた。人ではない自分が、人の苦しみの中に身をおくこと自体が愚かな過ちであろうと思った。自己という一個の人格を越えた向こうにこそ、崇高な自分が存在する......。


寧の燃える王宮や火柱が雲漢を紅に焦がす光景は、未だに玉兔の心を暗くさせる。離宮へと続く田園ののどかな様や、寧から絽陽までの道すがら見た草原の色は雄元や伊士羅の意志とは完全に無縁であるべきであった。


だから祈るのだと玉兔は柄を握った。


雪が欲しい。


人の都合で地が荒れてはならない。


雄元の肩にも伊士羅の肩にも雪が積もり、馬の息は冷気に白く染まる。そんな情景を思い浮かべた。武具の上から被せた毛皮が縮まるぐらい冷たい空気は耳を凍らせる......。


天に舞いを捧げ、玉兔は自分の思い描く情景が未来となるように願った。


剣の先が天に煌めき、玉兔の背が完璧なまでの型を取った。額から汗が粒となって地に落ちた。彼女の心からはいつのまにか、人らしい迷いが消えていた。雄元のことも蓮杏姫のことも、伊士羅のことも、寧のことも―。




「雪だわ......」


香(こう)が天を指差して言った。花弁のような一片の雪。


「本当に雪が降ってきた」


莠(ゆう)が香に似た顔を横に並べててのひらを空に広げた。


空気が凛と張っていた。


「これで興は救われるの?」


「雪が道を閉ざしてくれたなら」


姉妹は西の方を見た。黒い雲が裳を翻すように広がってゆく。雪の嵐がこの世すべてを白く染め変えて天も地も一つなってしまいそうな日を願って、二つの額が地についた。








雄元と李敬健もまた同時刻に馬車から雪を見上げていた。そして遠くに消えかけていた絽陽の王宮の甍の群れが黄金から白色に埋まるのを見て、微かな感傷に落ちていた。


「天帝のお恵みですね」


「......」


「今頃西夷は馬首を返していることでしょう」


李敬健が静かに言ったが、雄元は何も答えなかった。馬車の揺れが雪のせいで酷くなった。それはまるで雄元の何かを揺すぶるためのようでもあった。


「やはり玉兔公主は興の神祇の司にするべきかと。金烏公子はどこか信用ならぬところがあります。最近ではしきりに王に取り入っていると報告もございますし、民が疲弊しているのに雨乞いも芳しい成果を上げず、ひたすら王から依頼されている妃の安産ばかりを祈る始末です」


「ああ......」


「聞いておられるのですか」


「ああ......」


「将軍?」


李敬健は、肘を着いたまま空を見上げ続ける雄元に苦笑し口をつぐんだ。雪に雄元が玉兔を想っているのだ。馬車から手を出して重くなりつつある雪の具合を確かめた李敬健は、寒く厳しくなりそうな今年の冬の始まりを感じた。


そして無口な同乗者相手に会話の糸口を探すことを諦め、軍師らしく、貯蓄米の量を頭の中で勘定し始めた。米の値があがれば物価が上がる。北の民の暴動も興全体どころかこの巨大な中原全てに広がっていく可能性は大きかった。だが西夷が完全に兵の撤退するまでは、どうしても軍事優先にしなければならないために、そちらの方はどうしてもなおざりにするしかない。


敬健は頭を抱えた。そして雄元の意見を聞こうと言葉を発しようとした瞬間、馬車が大きく傾いた。敬健の体は辛うじて馬車の中に残ったが、前にのめり、乗せていた書籍がいくか雪の上に落ちた。


「どうしたというのですか」


馬で付き添っていた呂雲に不満げに敬健が訊ねると、彼は車輪を指差して溝に嵌ったのだと言った。


「お二人とも、直ぐに引き上げますのでそのままでいらしてください」


「こんな雪になると知っていれば輿にしたものを」


「......」


「これでは無事に離宮に着けるかどうか」


雄元が敬健の言葉に急に立ち上がった。


「いかがいたしましたか?将軍。すぐに馬車を呂雲が引き上げますのでそのままで」


「帰る」


「帰る?」


「絽陽に帰る」


将軍は供に引かせていた自分の駿馬の手綱を取った。李敬健が必死に『ご婚礼はいかがなさるおつもりなのですかっ!』と止めたが、『お前に後は任せた』と白い歯を見せた。


「お待ちくださいっ!」


敬健の悲鳴めいた引き止める声だけが、背中を見せて馬を走らせる雄元とそれに従った呂雲に追いつけずに雪のまにまに消えていった。

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