落陽記

 

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玉兔は伊士羅と会ってから文字通り一歩も雄元の部屋から出るのを許されなかった。それどころか、何日もそのまま忘れ去られたように放置された。


雄元の本棚からいくつかの難しい本を読む以外彼女にはすることもなかった。見目の良い侍女の莠が『西夷の使者は絽陽を去ったようでございます』と兵の一人から聞き出してきたが、それが何を意味するのかは分からない。


しかし王宮全体が異質な慌ただしさに殺気だっているのは確かであった。既に華妃の存在も華応安の名前も裸木の下に積もる木の葉が土にかえるように人の口の端に上ることはなくなり、陶太后も離宮へと去り、何か新しい不安が空を覆っているのである。



「冬ね」


玉兔はせめて寧の新年の華やかさを思い出そうとした。朱の地に金糸の細工が鮮やかな布を垂れた壁に、珍しい食べ物が並んだ膳。母が笑いながら気難しい娘に話し掛ける。楽しかった頃の記憶―。




「玉兔」


扉が開き、皮沓が荒い音を立てて近づいてきた。


「......」


「玉兔」


「数日だけという話ではなかったの。退屈で死ぬところだったわ」


「それどころではなくなった」


不機嫌気味に不満を口にしようとした玉兔を雄元は抱えた。彼の腕は外の冷たさを含んで氷のようであったが、その様子は夏の嵐のように激しかった。


「どうかしたの?」


「戦になる」


「......」


「西夷が攻めて来る。お前と交換に止めてもよいと言われたが、断った」


「馬鹿じゃないの?」


玉兔は心底雄元を愚かだと思った。自分が雄元なら迷わずさっさと差し出していただろう。先王が亡くなって半年も経っていない。喪中に兵を動かすとは相当な話である。


「俺は馬鹿ではない。国の威信もある。冊封した蛮族に脅されて、たとえ質だろうが要求されて差し出すことはできない」


「伊士羅は?」


「煮ても焼いても食えない男だ。西夷に大人しく帰した」


「そう......」


「長い戦いになるかもしれない」


「お前も行くの?」


「最終的には」


唇が重なった。何かを隠したいための接吻のようでも、何かを飲み込むための接吻でもあるように玉兔には思われた。


「俺には二つの矛盾した要求がお前にある」


「......」


「一つは今、俺はお前を抱きたい。そしてもう一つは雪を呼んで欲しい。大地を凍らせる雪を」


玉兔は眉を寄せた。霜月に雪。寧ならば不思議でもない。しかし、まだ絽陽には早い。それに飢餓で苦しむこの国に雪を降らせては、民が苦しむ。


「どちらも無理だわ」


「雪が降れば西夷は引かざるを得ない。血が流されずに戦は一時停止するはずだ」


「そんなの隷に言えばいい」


「俺はお前に頼んでいる」


玉兔は顔を背けた。


「戦で男手が減れば来年も民は飢餓に苦しむことになる」


「で?どうして私を抱きたいなんてそんなことを言うの?あなたは私の力が必要なのに。巫女でない私なんて無価値だわ」


「......」


玉兔には分かっていたのかもしれない。蓮杏姫と会ったときから。あの姫が雄元の妻になるのだと、ここ数日ずっと考えていたことでもあった。



寧の公主は何も答えぬ雄元を睨むとその腕を払いのけた。そして『自分には関係ないことだわ』と心に言い聞かせながらも、婚儀のために金烏宮へと向かう雄元を乗せた馬車が雪で往生する光景を思い浮かべた。


長く続く道を雪で埋めてしまいたい。軽い雪の片などではなく重い水気を含んだ石のような雪で。


それを嫉妬などという単純な言葉では玉兔は言い表しようもなかった。酷く惨めな気持ちと誇りを汚された怒り、それらは憎愛以上に彼女心を占めていた。


「すまない玉兔」


「私には関係のない話だわ」


玉兔は顎を持ち上げて言った。


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