落陽記
落陽記
6章
65
李敬健は絽陽にその日のうちに呼び戻された。
雄元から西夷王の意向を聞くと、少し眉を上げ、そして目元を険しくした。
「背に腹はかえられぬとはこのことをいうのでございましょう。蘇学の三万に絽陽の二万を加え、五万でまずはあたり、南方より兵が着くのを待つしかありません」
「それでは絽陽は空になる」
「離宮の一万をこちらに動かせばよろしいのでは」
「近衛が離宮での勢力を握る」
「ですから背に腹はかえられぬと申し上げているのでございます」
李敬健は卓上の地図にのせられた兵の駒を動かしてみせた。南方は薄手になり、隣国の宛国や極国などがこれに乗じる可能性が高い。
「そもそも興は急速に大きくなりすぎたのでございます。そして奪った土地を直轄ではなく、細かく切り刻んで臣たちに分け与えた。前王の政策でございますれば、致し方ないと言うほかございません」
「そう半分諦めたような言い方では困る」
「では玉兔公主をお諦めくださいませ」
「......」
雄元は黙った。李敬健は今ある窮地から簡単に脱する方法がありながら、将軍がそれに消極的であるのが理解しがたかった。日の巫女を得た人間がこの大地を治める天命を授かるなどと言われてみても、このままでは西夷に国の半分は最低持っていかれる方が現実的である。
「兵は二十万。あちらも大所帯でくるということだ。都が廷関(ていかん)という地に定められたと聞くが、それはどの辺りか」
「このあたりかと」
遊牧の民である西夷が都を定めたということは、急速に西夷が中原化していることを意味した。それは寧で育った伊士羅の強い意向によるもののはずである。見た目は異国人でも、あの男の思考は中華のものだ。
「西夷のさらに西にある契氏国(けいしこく)も西夷の拡大にはいまいましく思っていることだろうな」
「敵の敵は味方と申しますから、使者を遣わしましょう」
「それがいい。ただ時間がかかる」
「しばらくのらりくらりと戦う他ございません」
「そうだな」
「それと、軍を離宮から動かすことになれば、当然、王との関係が難しくなります。このまま離宮で飾り立てておくのは厳しくなるやもしれません」
「ああ」
「つきましては、そろそろお腹をくくって頂きたく」
李敬健が言いたいことは雄元には分かっていた。公主蓮杏(れんあん)との結婚である。王の妹を妻に持てば、陶太后も納得し、雄元が完全に国を乗っ取っている現状に不満を持つ人間たちも懐柔できる。
「それほど嫌な相手でもございますまい。芙蓉のような方ではありませんか」
「あの陶太后の娘だ」
「玉兔公主とまでいかなくとも、美しい姫君です。悪い方に考えるのがいけないのでは?」
「......」
「どちらか一つでお願いいたします。玉兔公主を西夷に引き渡すか、あるいは公主蓮杏さまと結婚するか」
それでは雄元には後者の選択しか残っていないことになる。彼にはもう玉兔を手放すことなど出来ようはずはなかった。たとえ、人の情欲の池に二人で漂うことはなくとも、彼はかの巫女を愛し、そして持たなくてもよかった野心さえも抱き始めている。
「分かった。蓮杏を妻としよう」
「ご英断に感謝いたします」
李敬健はそのまま下がっていった。
雄元はそれを見送ると、襟を緩めた。空気が必要であった。一人、供も付けずに広大に広がる白い庭に出れば、冬が待ち遠しい。雪が降れば、西夷も引かずにはいられない。
雄元は初めて天に祈った。
厳しい冬を願って―。