落陽記

 

62

雄元は陶太后の部屋を訪れた。


すっかり片付けられ、あとは身を一つ車の中に移せば、そこは後宮でも王宮でもなく広いただの空き部屋となるだけであった。


「陶太后。公主蓮杏(れんあん)と私が結婚とはいったいどういうことでしょう」


「......」


太后は太った猫を膝に抱いたまま、雄元の問いにしばらく答えようとはしなかった。日がちょうど彼女の顔には届かずに暗い影だけが伸びていた。


「伯母上」


「何を今初めて聞いたような口ぶりを......」


低く小さな声。しかしそれははっきりと雄元の耳に届いた。だが陶太后の瞳は猫に注がれたまま。


「確かに以前よりそのような噂をするものは数えきれずおりましたが......まさか公主ご本人から聞くとは思っておりませんでした」


「最高の縁談ではないか。蓮杏とそなたはいとこ同士。王家の血と陶家の血が混ざれば、これに増す国の安定はありますまい」


それは事実である。王の妹を娶れば王と雄元の関係も増し、雄元が王を補佐する建前もできる。他の一族に王との間に割り込む隙をあたえないためにもそれは必要なことであった。だが、いくら蓮杏が愛らしい少女であろうが、雄元は彼女を愛せるとは思えない。


「太后。今は不安定な時期。そういうことは後々の方でよろしいはずでは」


「不安定なればこそ。お前は何を迷うか」


太后は喉の奥で笑った。寡婦の黒い衣がそれに揺れて、飾りが音を立てた。


「よもや一人で全てを成し遂げたとは思うでないぞ」


「......」


「若さとは罪なことよ」


猫だけが雄元を見た。鋭い目。暗闇で片方だけが光っている。


雄元は黙って踵を返した。


武人である彼は引き時を知っている。特に相手が自分より狡猾であるときは―。陶太后は雄元が生まれる前から後宮に上がり、そして生き抜いてきた女。決して彼が正面から当たって勝てる相手ではないのである。




「玉兔はまだ見つからないのかっ!」


王宮の回廊を憤懣が怒りとなって配下の頭上に落ちた。


「ただいまこちらに向かっているとのことです」


「どこにいたのだ」


「......」


「どこにいたのかと聞いている!」


「西夷の使者とおりましたところを見つけたのことです」


雄元は自分の失態にその時ようやく気がついた。ここに来た目的、それは西夷の使者である伊士羅(いしら)と会うことであった。雑務に追われ、失念していた自分に雄元は腹が立ち、そして玉兔と伊士羅を会わせてしまったことを苦々しく思った。


「玉兔は俺の部屋に閉じ込めておけ。一歩も外に出してはならない」


「はっ」


「今から使者に会う」


呂雲は戦場では役に立つが、秘書官としては李敬健にはとてもおよばない。


雄元は呼吸を整えた。


落ち着かなければ。


草原で剣を合わせたときの記憶が蘇る。切れ味がよい優れた腕前。やろうと思えば、雄元の命を取ることもできた。しかし、あの男は深追いをせず、雄元たちを見逃した。それはなかなか出来ることではない。


―西夷公子、伊士羅とはきっと冷静な判断力と計算ができる男のはず......。



雄元は、袍を改めた。


黒い袍に金の飾り刀を帯び、そして冠を頭にのせる。興国の威信と『血の軍』を率いる陶雄元将軍の名を背筋に表し、臣下が掲げた鏡の中の自分を見た。影の君主として一つの隙もそこにはなかった。


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