落陽記
落陽記
60
玉兔は連なる殿舎の向こうに高い楼があるのを見つけた。
絹の靴の裏革を鳴らして玉兔は侍女たちの制止を振り切って走り出した。いつのまにかあたりの景色は変わり、女らしい曲線の多い建物ばかりだったのが、龍紋があしらった厳めしい建物に四方を囲まれていた。
―迎賓の殿かしら......
秋の葉がななめに横切るだけの空間で、寒々しい。
楼はどこであったかとあたりを見回すとその建物のすぐ後ろらしかった。人気はないが、全く無人というわけではないはずである。玉兔は人に見咎められないように足早にそこを抜けようとした。
「待て」
しかし案の定、玉兔は男の声に引き止められた。どう見ても自分は女官ではない。どう言い訳をしようかと一瞬思い悩んだが、なんとも言いようがなかった。捕まって、雄元のもとに戻されるだけだろうと、楽観的に思うことにして、彼女は振り向いた。
「......。玉兔公主」
そこにいたのは、鷹を手にした薄い碧眼の男。
「伊士羅っ」
あの草原で、この男を見た。だが、半ば彼ではなかったのかもしれないとも思っていた。それが、今、こうして自分の目の前にいる。玉兔は寧の幼友達に幻ではなくめぐり会えたのだ。
二人は同時に駆け出した。大鷹が白い羽を羽ばたかせ伊士羅(いしら)の腕から飛び立ち、代わりに玉兔の小さな身体がすっぽりとその胸に埋まった。
「生きていたのですね」
「......いしら」
「どんなにかあの時あなたを追って行きたいと思ったことか......」
伊士羅の言葉に玉兔はもう何も言えなかった。彼からは遠い西国の匂いがした。それはどこか寧を憶わせる、厳しい冬と美しい春をもつ北西の国の匂いであった。
「寧が滅んでしまったの。父さまもお母さまの殺されたわ」
「......」
「私ひとりだけなの。みんな殺されてしまったわ」
みんな、みんな......。
玉兔は五年ほど前まではほんの子供だった伊士羅が彼女よりもずっと背が伸び、そして厚い胸板の中でこうして抱きしめてくれることに安堵しその襟を涙で汚した。
「あなたを迎えにきたのです」
「私を?」
「もう案ずる必要はないのですよ」
薄い瞳に優しさが溢れた。
「私と共に西偉の都、廷関(ていかん)へ」
『夷』(い)とは本来東方の異民族をさす言葉である。西夷は自称国名を西偉(せいい)と言うが、『偉』の文字蛮族に使うことを嫌って中原の人間たちは、かの国を西夷と蔑んで呼んでいた。
寧は西夷と交流があったといっても、そこは広大でそして未知の場所。玉兔は伊士羅のいう廷関(てんかん)という場所がどこであるのかさえ分からなかった。ただ広がる草原のどこかにそういう名の都があるような気がした。
「知らなくて当然です、公主。廷関は最近定まった都。まだ城壁も乾かないような状況ですから」
首を傾げて見上げた玉兔に伊士羅はそう付け加えた。西夷より更に西の玉兔が名も知らぬ国から技術者を呼び集めて、最近都はつくられたのだという。唐草模様が天井をはう宮殿を玉兔は思い浮かべた。
「しかし私の個人的な屋敷はあの寧の王宮のように朱の漆に金の飾りを施したものを建てるように命じているのです」
「本当に?!」
「砂漠を渡ってきた白い石を床に敷き詰めてあったあの王宮。どこか遥か昔の中華の香りのする寧の宮殿は私の故郷のようなもの」
「......」
「もう何も心配することなどないのです。瑶凛(ようりん)姫」
諱(いみな)をよぼれて玉兔ははっとした。美しい草原も西方の建物の立ち並ぶ都も、寧の王宮を模写した伊士羅の屋敷もその一瞬で消え去った。
寧では名を伏せるのが習わし。
「忘れておしまいになったのですか......。あなたは私の妻になるはずだったのに」
その習わしの例外は夫。
日の印を体に宿す前の玉兔は忘れ去られた公主だった。あまたいる王の娘の一人。母は女官で、後ろ盾もなかった。王宮を自由に駆け回っても誰も咎める者もいないほどの、気楽な身の上。
異国の質の王子と妻合わせるにはちょうどよかったし、いつも馬の乗り方を教えてくれる伊士羅は玉兔には一番身近な存在であった。
「あなたが十五になったら王に妻にと請うと思っているのです」
供を遠くに引き離し、二人だけで野駆けした十二の春。馬の手綱を引きながら歩いていた時、そう伊士羅に告げられた。白い花が小さな一面に咲いていて、そよかぜがその首をなぎ倒しながら野原を滑るように泳いでいった。
『だめ』とも『うん』ともそれに彼女は答えなかった。
代わりに「瑶凛(ようりん)」と小さく呟いた。
ほんの五、六年ほど前の話であるが、彼女にはそれが何十年も前のことのように思い出された。幼い自分。何も知らなく、知る必要もなかった日々。絵物語のように美しい色のみがそこにはあり、不必要な醜いものは当然のように記憶から省かれている。
「あなたを迎えにきたのです。あなたが、私を西偉に帰国させてくれたのもそのためなのでしょう」
玉兔は靴の先を見た。