落陽記

 

59

少女の名は蓮杏(れんあん)。


興王英の同母妹である。十八才の公主は、愛らしい季節外れの牡丹をあしらった髪飾りを頭につけ、柔らかな桃色の衣を身にまとっていた。


晩秋の季節に不似合いなまでのその色合いは、だが興の公主の頬の色によく映えていた。


「雄元さまが絽陽にいらしていると聞いて、お会いしたいと思っておりました。それがこの王宮に昨晩はお泊まり遊ばしたと聞きましたので、朝一番で来たいところを我慢して日が高くなってから参りましたのよ」


公主蓮杏は堰を切ったように話し出すと、そこにまるで玉兔がいないかのように雄元の袖に手を掛けて見上げた。それがいかに自分を意識しての行為か分かる玉兔は、蓮杏が王妹であるのも気にせずにそのまま、朝餉に手を付けた。


「無礼ではありませんか。こちらは王の妹姫であられますぞ」


しかし、蓮杏の侍女の一人は我慢んならぬと玉兔の箸を取り上げて、跪くように玉兔に厳しい声で言った。


「よろしいのよ」


蓮杏が苦笑して慈悲深さをみせた。


「この方はお客人なの。そうなのでしょう?雄元さま」


「......」


「はじめまして、わたくしは蓮杏。あなたの名前は?」


「......」


「蓮杏さま、こちらは玉兔公主です。寧人は名を秘する習わしがあるので化粧領の食邑の名である玉兔と呼ぶのがよろしいかと......」


「そう。では玉兔さまと呼ばせて頂いてよろしいかしら?」


「......」


あからさまに無視を決め込んだ玉兔に蓮杏は眉をよせ、そして将軍に微笑んだ。彼は個人的に寛いでいるところにこのように不躾にやってきた蓮杏に閉口していたが、公主であることに一応の遠慮もあった。興国一の公主と言われているだけあって、愛らしいし、社交的であるが、こういう図々しさに雄元は腹が立たずにはいられない。


「ご覧の通り未だに着替えてもおりません。蓮杏さまにはまた後ほどご挨拶に参りましょう」


雄元は目の前の姫君に言外に帰るように促したが、「まあ、お気遣いは無用ですわ」とそのまま空いた席についてしまうのも怖いもの知らずに育ったせいなのだろう。


「母上が雄元さまとそろそろ話したほうがよいと申しましたの」


「陶太后さまが?」


「はい。わたくしたちの婚儀はいつ頃にするのがよろしいかと」


「......」


蓮杏の優越感に満ちた瞳が玉兔に注いで止まった。『あなたは妾にすぎないのよ』とその目は言っており、玉兔は屈辱に唇を噛んだ。自分が九つの太陽の巫女であることは秘されなければならない。


けれども、雄元とこうして朝餉を共にしている関係は曖昧である。それは玉兔自身が雄元に対している気持ちにも言えた。霧に包まれた金烏宮の朝のように彼女の心ははっきりとその全貌を明らかにはしてくれないのである。


それなのに、こんな風に人に蔑みの視線を向けられると、それに抗おうと湧いてくる自分の感情は明らかに嫉妬であった。巫女であり、天帝の子として今まで額ずかれて生きてきた玉兔には自分の卑しい人としての感情が許せなかった。


それは誇り高い玉兔には堪えがたい屈辱。


玉兔は席を立った。


「待て。玉兔」


雄元の声が背中を追いかけてきたが、彼女はそのまま外に出た。侍女の香と莠(ゆう)の姉妹だけが続いた。


「玉兔さま......」


「お気になさることはございませんわ」


慰めの言葉は肩をかすり玉兔の心には入ってこなかった。空っぽの王宮。甍ばかりがまばゆく、白い雲が北西へと流れていくのが草原で見た空と重なった。


そして玉兔は隷の顔を思い浮かべた。


感情を決して映さない冷たい巫祝の司。ああいうものこそ自分に必要なものなのかもしれないと玉兔は思った。心を閉ざし、あるときは冷酷にあるときは冷静に天の流れを告げる人ばなれしたところが―。


そうでなければ今の感情に押しつぶされて、自分というものがこの世から消え去ってしまう、そんな心の揺れが足下から襲ってきたのであった。


Next>

copyright©2008椰子実