落陽記

 

57


寝台ではなく玉兔は長椅子に身を横たえた。


「何を怒っている」


「怒ってなどないわ」


雄元は、今日という一日を華妃を渡そうとしない陶太后を説得するのに費やした。女とは恐ろしい。一息に殺してしまうよりも、長々と暗い部屋に閉じ込めておく方が残酷であるのを承知で陶太后はかつて寵愛を競った相手を渡そうとしなかった。たとえ、華妃が我が子に殉するのを望んでいたとしても、その生死を自らの手の内からはなしたくないがために雄元の要求をはねつけたのである。


それを嫉妬と呼ぶのかもしれない。


華妃は陶太后よりも十は若い。そして陶太后は決して美しい女ではなかった。陶家に生まれなければ王は見向きもしなかっただろう。誇り高い彼女が権力の虜になったのは、なるべくしてなったと雄元も思う。


こういう老いた女たちを相手にした夜は、雄元は無意識に若い女を抱かずにいられないものだ。無知で純朴な女たちを。しかし、今夜はつまらぬ女官を相手にする気にはとてもなれなかった。たとえ抱くことは叶わなくとも玉兔を側に置きたかった。


「何を怒っているのだ」


それなのに、今玉兔までもがこうも不機嫌なのには雄元も付き合いきれない思いもあった。自然に声が低く強くなり、玉兔の腕を掴んで寝台に押し込んだ。


「なんでもないと言っているでしょう」


「なんでもないようだから聞いている」


「華妃が連れて行かれるのを見たのよ」


「それがお前になんの関係があるというんだ」


「お前のような人間には分からないわ。心の痛みが連なっていくのよ、鎖に繋がれて―」


玉兔が涙を零した。流行病のように悲しみは人の心に入り込んで侵してゆくのだと言い、袖でそれを拭った。


雄元はそれを見て、目の前の女がまるで別人のような気がした。出会ったばかりのころの玉兔はもっと自己中心的で、そして他人に冷たかった。まるで薄紙が重なってゆくように重厚な人格が形作られ始めている。


「何もお前が嘆くことではないだろう」


雄元は玉兔の感じやすい心を理解できなくはなかったが、武人としてそして為政者としてあえて同調はしなかった。だが、温もりは必要だった。玉兔を抱きしめたのは彼女が泣いているからのように装ったが、実のところ彼が抱きしめられたかった。


「泣くな」


細かった燭台の明りが一つ消えた。


急に室内は冷え、そして部屋が狭くなった。


「泣くな」


雄元は玉兔を抱きかかえたまま寝台にその身を横たえた。


「私、離宮で絽陽から立ち上る紫雲を視たの。そして赤い気も視た。この世は乱世になり、新しい王が立つのを知ってた。鳳が現れたのもきっとそのせいね」


「......」


「なのにどうして寧の滅びは分からなかったのだろう。お前に滅ぼされるとなぜ分からなかったのだろう」


「人は知らなくてもいいことは知る必要がない。天帝がお前に不必要だと思ったことを、知らせることはないのだろう」


玉兔は瞳を開けたまま闇の中を見つめていた。死臭がした。華妃の処刑が行われたからなのか、それを命じた雄元からその臭いがするのかは、九つの太陽といわれる玉兔にも明らかではない。


「私はお前のような人間は嫌い」


「......」


「髪まで死の臭いが染み付きそうだわ」


嫌悪感を口にしながら、それでも玉兔は雄元の腕の中から動かなかった。かつて、彼女は隷に『たとえその身は囚われていようが、心は自由である』と言ったことを思い出した。しかし、今それは事実とは違っている気がした。


「私は今の愚かな私が嫌い」


心が囚われてしまっているのだ。自由な心こそ、彼女が最も自分の好きな点でありながら、雄元や興国の事情に囚われてしまっている。


「気にするな、俺は愚かなお前が愛しい」


「......」


雄元が初めて想いを言葉にした。けれど、それはまるで草原で耳の横を通り過ぎる風のように玉兔の心には通わなかった。


「目を瞑れ、玉兔」


玉兔は雄元に抱えられたまま瞳を瞑った。遠くで不気味に鳥が鳴き叫ぶような声が聞こえたが、彼女は夜の闇に横たえたまま身じろぎさえしなかった。


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