落陽記
落陽記
56
雄元は夜には迎えにゆくと言っていたが、夕餉の時刻になっても現れない。一人箸を取った玉兔は、寂しさを感じた。
「もうよろしいのでございますか」
殆ど手を付けられなかった膳を下げる彩季が訊ねた。玉兔はそれに手を振って答え、再び書物を読むべく長椅子に腰をかけた。
雄元は朝になっても迎えには来ない気がした。知らない場所に置き去りにされるのは慣れていない。雄元に対する複雑な思いをしまい、彼女は彼に早くここに迎えに来て欲しいと思った。
頁があと数枚となるほどまでになった時、外が煌々と輝いて騒がしい声が聞こえた。中には男のものも混じる。後宮に男の声である。玉兔が眉をひそめて立ち上がると、侍女らも恐る恐る集まって、玉兔が開ける窓の外に目をやった。
細い女が兵に連れてゆかれるところであった。髪が乱れ、着物が汚れている。若い侍女の莠(ゆう)が『あっ』と言いそうになった唇を手で隠した。
「あれは誰?」
「...」
「あれは誰なの?」
玉兔は莠に訊ねたが、その名を告げることさえも不吉であるかのように侍女は面を伏せたままだった。
「あれは誰なの」
玉兔は同じ質問を今度は姉の香(こう)に訊ねた。しばらく黙っていた彼女ではあったが、玉兔の視線が自分の首の後ろに注がれたままであるのを感じると顔を床に張付け
「あれは華妃さまです」とようやく答えた。
公子志旦の生母の華妃。年の頃は三十路あたりか。燃え上がるかがり火に映された顔はやつれてはいたが、王の寵愛を欲しいままにしたという美貌がそこにはあった。
「処分が決まるまで自室にて幽閉されていたのでございます...」
志旦は賜死となったと聞いていたが、彼の母はまだ生きていたのかと玉兔は複雑な思いとともに聞いた。きっと雄元が離宮より来て、その処分、つまり死が決まったのであろう。酷く無表情な華妃の瞳は既にこの世のものではなく、鬼が住み着いていた。
「殺されるのね...」
「...」
玉兔の呟きに誰も答えるものはいなかった。
志旦(したん)も華妃も玉兔の知る人ではない。ただ乱れた頭に挿している簪の美しさがかつての彼女の威勢の影を引いて見えた。それは寧から興国に連れてこられた自分の姿であり、今の自分なのかもしれない。
華妃がそんな彼女一瞬の心迷に気付いたように、振り返り窓を見上げた。
玉兔は、華妃と目が合うと慌てて窓を閉めた。
ぱたりと閉じた音と共に、華妃の骸からその黄金の髪飾りを奪おうと群がる兵の姿が一瞬脳裏に閃いた。そういう予感は美しくない。
「お茶をちょうだい」
立っていられないほどの黒い気。悲しみと憎しみ、怒り。華妃の持つ感情が玉兔に乗り移ったのだった。玉兔はそれを祓うかのように運ばれてきた茶に手を伸ばした。
熱い茶が喉もとを通り過ぎていく。あいまいな悲しみと重苦しさをそのまま一緒に胃に流し込んで落ち着こうと、彼女は自分に言い聞かせた。
「陶将軍がお見えでございます」
「...」
後宮に王でもない雄元が現れる。それは彼が今はこの国の王であるから。玉兔はまだ気分の優れぬ頭を持ち上げて茶器を置いた。
「遅くなった」
「...」
玉兔以上に雄元もまたこの日はあまりいい一日ではなかった。だが、二人の違いは玉兔は華妃の姿に酷く心をかき乱され、雄元はただただ事務的に全てをこなした。
「不機嫌だな」
「...そんなことはないわ」
「もう今夜は遅い。ここで寝る」
「...私はどこで寝るの?」
「お前もここで寝るのだ」
玉兔は彼の一方的な言葉に苛立った。
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