落陽記
落陽記
5章
55
玉兔は後宮の一室に押し込められた。
豪奢な調度の作りから、離宮に王が移る以前は王の妃の一人が賜っていた部屋と察せられた。しかし今は主が去り、どこか空虚さが拭いきれない空間である。
窓を開けさせて、玉兔はそんな淀んだ気を追い払おうとした。
冷たい風に老女の彩季が身震いをしたが、北国である寧の生まれの玉兔にはまだ寒いというには少し早かった。楓がてのひらを広げて落ちていくのもどこか赤さが足りない。
寧ならば、今頃雪がちらほらと降り出していてもおかしくない時期。
寂しくなった木々の枝に雪の片がかすめ、そして玉兔の袖に消える......。そういう季節のはず。
それに比べると興国の秋は長い。玉兔は感傷的にさせる秋は好きではなかった。暑い夏の光の下では忘れていた感情が、こうして知らない国の後宮に閉じ込められ、甍の合間から秋色の空を見上げると、落ち葉とともにかなしいく募る気がした。
侍女は彩季の他に若い女たちが二人ほど付いたが、そのいずれとも玉兔は口をきかず、何か用件のあるときは老女の彩季の耳元で囁いてすませた。空になりつつある王宮に取り残されたその侍女たちは、多少の好奇心をもって玉兔を見ていた。
離宮へと去る者は日に日に増えても、この後宮に新しく入ってくる人間は一人もいない。それが陶雄元将軍が連れてきた女であれば尚更で、玉兔の美しさを見てなるほどと納得したかと思うと、彼女の作法の一つ一つに異国の欠片を見つけて何者であるかと囁きあったていた。
以前の玉兔ならとうに我慢がならなくなって彼女らを扇の端で折檻していただろうが、玉兔は息を吸うのも気を遣うほど、鳴りを潜めていた。それは後宮と言う場所がどういうところか彼女がよく知っていたからかもしれない。
昼まで王の愛に驕っていた愛妾が、夜には行方をくらまして、朝、冷たい井戸から引き上げるなどというのが日常的に行われる場所が後宮である。
玉兔には雄元が、今この絽陽の王宮でどのような立場にあるのか知るよしもなかった。離宮では興王、英にそれなりの遠慮はあっても、実質上彼が君主であったが、絽陽では未だにそれをよしとしないものが多く存在する可能性もある。
彼に近い人間というだけで、こうも好奇の目で見られるのであるから、雄元の言ったように目立たずにいるのが得策だと玉兔も思っていた。
それでも、元来の気質を捨てきれない彼女は、寂しい窓の外を眺めた。
そして時折通る人の動きを読んで、少しは絽陽の状況としうものを理解しようと試みたのであるが、雄元の伯母で英の生母の陶妃、今は英の即位に伴って太后の位に昇った人がもうすぐ離宮に移るのに伴って連日荷物が忙しく運び出されるだけである。
金をあしらった調度が寒々と庭先の木の下に放置されて、そこに木の葉が舞い落ちていた。
「お前たちも離宮にゆくの?」
ほどんど口をきかなかった玉兔が初めて口を開いて侍女たちに訊ねた。
全く話さない玉兔のことを耳が不自由なのだと思っていたらしく、驚いた顔を彼女らはひれ伏した。そして『わたくしたちはお供には加わりません』と答えた。二人とも、色白で切れ長の瞳を持った美しい侍女で、玉兔は純粋に彼女たちが供に加わることができぬのを不思議に思った。
「じゃ、ここにずっといるの?」
「たぶん、里に帰されると思います」
「そう。お前たちは見目良いのに惜しいことね」
玉兔はそう言うと手にしていた書物に目を落とした。
普通、王の妃らは万一自らが子を孕めぬときのために美しい侍女を側に置きたがるものだ。王の目にもし侍女が目が止まれば、その子を自分の子とすることも出来たし、それで王の訪れが増えれば妃としての威勢が増した。華やかな若い女が多ければ、それだけ妃の回りが賑やかにもなったのである。
それなのに、こうして美しい女たちが絽陽に置き去りにされるということは、興王、英の権威の低下と、妃たちの政治的な複雑な事情が隠されているようである。
「金烏宮に行きたくないの?」
「もちろん行ってみたいとは思います。金烏宮は興国でもっとも美しい宮殿と言われておりますところ。今まで身分高い方しか入ることを許されなかったのが、お許しさえあれば私たちのような身分のものでも上がることが出来るようになりましたので、お供に加えられるとばかり......」
二人は一様に落胆を隠さなかった。そして顔を見合わせてなにやら囁きあうと、意を決したように顔を上げた。
「姫さまにお願いがございます」
「何?」
「どうか私たちを離宮へ付き添わせていただきたいのでございます。無理を承知でお願い申し上げています。このまま里に帰されたとしても、家には私たちを養う余裕はなく、どこぞへと嫁がされるほかないのでございます」
器量の良さだけをたよりに王宮で侍女として上がったが、時勢の流れにもれたこの二人の侍女にとって玉兔が最後の頼みの綱であった。
玉兔は読んでいた本を脇に置いた。
「私の一存では無理だわ。でも将軍に聞いてみてもいいわ」
玉兔に同情ではなかった。どちらかと言えば、打算の方が多かった。一人の方がいいのだとずっと思ってきたが、彼女には誰か信用の出来る人間が必要であった。自由のない身で、興の状況を知るのは自分のもつ巫女としての力と、雄元や隷を通じて以外にない。
手足になってくれる人間が増えればそれだけで心強い。だが、簡単には雄元は首を縦に振るような気はしなかった。だからせめて気を持たせるようなことを言って、ここにいる数日だけでも味方になってくれる侍女が欲しかったのである。
彩季が皺だらけの顔を向けた。命を助けてやってもこの老女だけは信用できぬと玉兔は思った。それは年のせいかもしれない。女は年をとるごとに美しさを失う代わりに賢くなってゆくものだ。
「ありがとうございます」
頭を嬉しそうに下げた侍女は、年長の方を香(こう)といい、玉兔より年下らしい方を莠(ゆう)という。姉妹らしかった。
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