落陽記

 

53

「水浴びでも二人でしてきたのか」


玉兔を抱えたびしょ濡れの陶羽が雄元の部屋に現れると、努めて平静な声を繕って、彼は従弟に訊ねた。


「将軍、雨です」


「雨?」


雄元は冷気が流れ込むのもかまわずに窓を開けた。霧雨のような細かい雨であった。屋根に当たっても音を立てるどころか消えてなくなってしまいそうな、そう、玉兔の細い肢体のような雨......。


「ご苦労だった」


「......」


羽は何があったのか報告せずに玉兔を渡すと、黙って部屋を出た。彼女を将軍に渡した瞬間に感じた喪失感が、冷えた身体を夜風とともに通り過ぎていった。きっと将軍はあの女の肢体から濡れた衣を脱がし、布で拭い、そして......と思うと瞳を瞑って顔を天に向けた。


霧雨が彼の躯にわき上がる熱を沈めた。






翌日玉兔が目覚めるとそこは美しく飾られた駟車の中であった。不快な金の首飾りが外され、興国の貴族の娘のような襦裙が着せられていた。


「気付いたか」



同じ台詞を玉兔は以前聞いた気がした。それも同じ声音で......。


記憶をたぐり寄せるように彼女はゆっくりと重い頭を上げた。雄元が起き上がりざまに彼女の長い髪を手で一筋梳いた。彼の膝に寝かされていたのだと気付いた彼女は赤くなった顔を袖で隠した。


「お前だろう」


「?」


「昨日雨を降らせたのは」


「降ったの?」


「ああ」


馬車に垂れた薄布をまくり上げてみたが、そこには晴れやかな秋空と切れ切れの雲があるだけで、雨の欠片も残ってはいなかった。


「霧雨だった」


「そう......。やっぱりあまり降らなかったのね」


「民が喜んでいる」


耕作する農夫の動きが多少生き生きとして見えた。しかし、もうすぐは収穫の時期。水の豊かな離宮の近くとはいえ、夏の日照りで実りは少ない。玉兔は木の実を拾う子供らの姿を見つけると、酷く惨めに感じた。


「もっと早くすべきだったわ」


「......。悔やんでも仕方ない。飢饉は天災ではあるが、人災でもある。寧との戦を優先したために対策の遅れが生じた」



玉兔の鼻先をとんぼが抜けていった。


「秋ね......」


「直ぐに冬だ」


雄元は今年の冬を越せぬ者が北方では続出するだろうと広がる田園の様子に影を落とし、玉兔は、なぜもっと早く雨乞いをしなかったのだろうかと、興国を憎み、巫女としての務めを疎かにしたこの夏の自分を悔いた。


「案ずるな。志旦(したん)の問題はもう片付いたのだ。これからはこちらの問題に集中できる」


「公子志旦は殺されたの?」


「死を賜った」


「......。いくつだったの?」


「お前より二つ三つ年下ぐらだ」


「......」


会ったこともない公子のことであるのに、なぜか玉兔に悲しみが襲った。十四、五の少年になんの罪があったというのか。感傷が秋色の山とともに彼女の心を染めていく。そしてそんな風に自分が感じるのは、そういう悲しみが似合う季節だからだと、玉兔は思うことにした。赤や黄色の木々と、寒々とした肌木。今だに薄着の子供たち。


「もう少し寝ることだ」


武人の大きな手の平が玉兔の頭を撫で、元あったようにその膝に乗せた。彼女はされるままに横たわった。引き寄せられた虎の毛皮に彼女は包まれ、髪を解かれるのを感じながら、心地よい眠りの世界に誘われた......。


Next>

copyright©2008椰子実