落陽記

 



「怪我をしていらっしゃる」


初めに雄元の腕の怪我に気付いたのは敬健だった。本人さえも敵の剣が肉をえぐったことに気付いていなかった。


「これぐらいなんということはない」


「興の国境はもうすぐです。傷の手当をいたしましょう」


玉兔は何かしら雄元に非難されるのではないかと内心怯えていた。腕から滴る血は目眩を催すほど赤かった。


しかし当の本人はというと、


「玉兔お前、簪をなくしているぞ」と彼女を馬から下ろしながら先ほど起きたことなど忘れたような顔をした。


「危なかったですね、将軍。西夷がこんなところまで出て来るとは一体どう言ったわけでしょう」


「小勢だ。寧の情勢でも大方探りにきたんだろ?」


「西夷と寧は同盟関係でございましたから」


「なるほど。それで玉兔、お前はあの男を見知っていたのだな?」


急に話をふられた玉兔は雄元達から顔を背けた。彼女は裸足の親指同士を擦り合わせながら、薄汚れた衣、埃をかぶった髪を感じた。それらは酷く彼女を惨めにさせて、最後の砦というべき誇りまでをも雄元が奪おうとしているように思えてならなかった。


「知らない」


「知らないはずはないだろ?イシラとあの男を呼んでいた」


「伊士羅(いしら)というのは西夷の公子でございましょう。人質として寧に西夷から十年ほど遣わされていた者がおります。寧の側の人質が西夷で病死したので何年か前に人質の交換をしたはず」


「公子がこんなところまでお出ましとは」


「公子と言っても西夷の王は子が二十人いるとも聞きます。ものの数にも入らない男なのでしょう」


玉兔は李敬健の言葉に側にあった小石を握った。


寧が滅びる前の彼女なら目の前の男を殴るように父の禁軍に命じていた。『お許しください』と縋り付くまで打ち付けて、伊士羅をものの数にも入らない公子などと言ったことを一生後悔させただろう。


「玉兔公主。何か気に触ることを申し上げましたでしょうか?」


「私に話し掛けないで」


「気が強いのはいいですが、興に入ったらお気をつけなさい。あなたの命は風前の灯火と言っても過言ではないのですから」


「殺したいなら今殺せばいいでしょう」


「やれやれ、困りましたね」


敬健は雄元に大げさに首をすくめて見せたが、彼は片袖を脱いで傷を酒で部下に洗い流させており、染みる痛みに顔を歪めていた。


「玉兔。お前のせいでこんな傷になってしまったぞ」


「......」


「せめて手当ぐらい手伝ったらどうだ?」


男たちに体を触らせるのに味気なく思った雄元が恨み言のように言ったが、当然のように玉兔はそれを無視した。


「どうやら公主は寧公に甘やかされて育ったらしい。陶将軍に不遜な態度に出る公主は興には一人もおりませんよ」


「寧では宰相も私に跪いたわ」


「さようで」


敬健は玉兔の言葉に吹き出して笑った。ぼろぼろの絹をまとい、何日も顔さえ洗うことを許されない亡国の姫がかつての繁栄を驕ってみせたのがおかしかったのである。


「で?伊士羅という男はどういう男なのだ?玉兔」


「......」


「お前とはどういう関係だ?」


「どういう関係でもない。ただ昔遊んだだけ」


「昔とはいくつのことだ」


「小さい頃からずっと......。十二ぐらいまで」


玉兔は口をつぐんだ。そして十三の時に日の字を肢体に宿し、忘れ去られた公主から一変して、地に生きる日輪として国の中心に立たされたことを思い出した。


朝議にも簾中から公に天の言葉を伝え、あらゆる豪奢を欲しいままにしながらも、心のどこかで母の実家で気ままに過ごしたり、時に宮城で伊士羅や同じ年頃の娘たちと遊び歩いた日々を憶った。



「玉兔?どうした?」


「気安く私を呼ばないで」


ぴしりと雄元の言葉を跳ね返した玉兔に再び敬健は吹き出して笑った。


なんとも癪に障る男だと彼女は睨みつけたが、相変わらず笑い続ける敬健に雄元までもがつられて笑い、玉兔は二人の男に小石を投げつけたのだった。


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