落陽記
落陽記
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「李敬健はいるか!」
「...李氏なら先ほど、使者が絽陽から参りまして...」
謹慎が解けた陶羽は、将軍が連れて来た見た玉兔に息を飲んだ。あの日以来の再会である。彼女は以前にもまして美しく、彼には、少しばかり腫れた瞳に叡智と儚さが加わって見えた。
あれから陶羽は彼女のその後を気にしつつも、かんなぎの居住域には将軍の許可なしには近づけぬことになっているために会うことは叶わなかった。ただ遠くから彼女が住むという高楼を馬で通り過ぎるたびに見上げていた。
「絽陽から使者だと?何かあったのか」
「そこまでは。しかしあの李敬健さまが動揺されていおられました」
「...」
玉兔は大げさにため息をついた。
「もういいでしょう。私は疲れているの」
「疲れているなら隣の部屋で寝ていろ」
ちらりと奥に玉兔は目をやったが、そこは雄元が執務の間に使う私室のようで、書籍や寝台の脇に積み重ねられていた。
「無理よ。私は自分の枕でなければ眠れないから」
将軍の椅子に断りなく座ると、玉兔は顔を半分机に伏せて二人の男を見上げた。幼さが残る仕草ではあるのだが、気怠げな女の表情が無意識に男たちの心を掴んだ。特に年若い羽(う)は視線が合うと顔に火をつけた。もちろん、それに雄元が気付かぬはずはなく、
「陶羽、李敬健を呼んできてくれ」と不機嫌に言い捨てたのだった。
「寝ていろ」
「寝れないから」
「横になるだけ横になってみろ」
雄元は玉兔の腕を無理矢理引くと、寝台に押し込んだ。
「ねえ?知っている、隷って寝ないのよ」
「...」
「私もいつかそうなるような気がする。眠るのは好きなのに...」
「昔から、人が熟睡するには二つの方法がある。一つは酒だ。ほら飲め、寧の濁り酒だ」
雄元は盃を玉兔に手渡した。
「もう一つはなんなの?」
「...。お前はたぶん一生知ることはないさ」
自嘲ぎみに雄元が笑ったことに玉兔は気付かなかった。代わりに一口飲んだ寧の酒の匂いに、彼女は亡き父と、寧から興へ連れてこられた長い旅を思い出した。土の上に営を張った将軍の足下に濡れ鼠のように眠った日々を。
目を閉じた玉兔の耳に、あの旅の雨の音が聞こえた。
雨はいい。全てを洗い流す力をもっている。
「雄元」
「なんだ」
まだ李敬健が戻って来るまでには時間がある。
「雨が降ればいいと思わない?」
「そりゃ、降ればいい。民は飢えをしのげる」
「そうじゃなくて...ただ雨が降ればいいなと思うのよ」
雄元は戸口で苦笑を浮かべて部屋から去った。きっと隣の部屋で、絽陽からどのような知らせがもたらされたのか、報告を待つのだろう。玉兔はもう一度、夢の中の雨音に耳を澄ませた。
銀色の天からの恵み。
大地の乾きを潤し、孤独な彼女の心を癒す。玉兔は明日になったら雨乞いを本気でしてみようと思った。雨の降りしきる中を舞を舞うのは、自分のはっきりしない心を震わせてくれるような気がした。そしてずぶぬれになった身体にいつしか太陽の光が当たり、それを視れば、何か見失っていた大切なものが視えるはずであると...。
寧の酒と寝台に残されたままの雄元の残り香が、彼女を少しずつ眠りに誘ってゆく。
とぎれときれの思考の中で、まだ自分は眠れるのだと言い聞かせながら玉兔はその底に身を沈めたのであった。
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