落陽記

 

47


雄元の革靴が大きな音を立てて消えていくと、玉兔は寧の形見の机に倒れ込むように泣いた。


ずっと貯め込んでいた悲しみが溢れ出したのであった。


玉兔は、雄元とあんな約束をした自分自身の愚かさを呪い、そして隷の言う通り、あの男に心を許してはならないと激しく思った。たとえ雄元が、寧の地に再び彼女を連れて行ってくれたとしたとも。


出来ることならば、玉兔はあの誓いの白鳩を捕まえて殺してしまいたかった。


寧の遺品を抱きしめたそこに温もりを感じないのは、その持ち主の死体を抱き上げたときに感じたものと同じである。


―助けて...。


誰に求めるでもない。天にでもなく、ましてや亡き父でもない。


ただただ玉兔の魂が助けを必要とし、それが大粒の雫となって頬を濡らしていた。いっそ、雄元になんらかの恨みや憎しみを抱き、復讐を誓えたら楽であっただろうが、そうするには玉兔はあまりに清らかな心を持ちすぎていた。だから彼女は泣いた。



外では黒い幹が、耐えかねたように手を放した紅の落ち葉があった。北風が震えて冬が近いことを告げ、音が消える。自分の泣き声でそれがかき消されているのだと泣き止んで初めて玉兔は気付いた。


そして見上げた景色の美しさに心を奪われ、金烏宮の朱の柱と黄の甍、そして錦に凍える澄んだ空気に癒された。


床に身を横たえたまま、そんな外界にいつしか彼女の頬は乾かされゆくであった。


初めて亡き人を偲んで慟哭した玉兔は、泣きつかれてその瞼を下げた。


ひとしきり心を表に出してしまえば、何に対してそんなに自分は悲しんでいたのだろうかと若い女らしい心の防御が働いて、目を瞑った。きっと次に目を覚ましたときは、昔の平凡で退屈な日々に戻れるような気がしながら...。








思い直し踵を返した雄元が見たものは、床に眠る玉兔であった。その向こうで開け放たれた戸に一枚の楓の葉がまぎれこんでいた。


「風邪をひく...」


彼もまた床に座って横たわる彼女の肩に触れた。瞳がうっすら開いた。


「身体が冷えている」


「...」


玉兔の腕をなぞった男の指の腹。その感触に何も感じまいと彼女はそのまま窓の外、遠くを見つめていた。


「すまない。お前の気持ちを考えていなかった」


「...。もういい」


雄元が寧を攻めたのは王命である。玉兔が興を恨んでも彼を恨むのは筋違いかもしれない。だが、やはり複雑な気持ちは捨てきれなかった。雄元の掌を払いのけ、いつもの誇り高き公主らしさを取り戻すべく、背筋を伸ばしてみせた。


雄元はそんな玉兔に心のどこかで安堵した。弱さを見せた彼女にまだ慣れていないせいであった。革靴を立てて、彼もまたその横に立ち上がると、優しさを見せたのは嘘のように冷淡さを取り戻そうとした。


「俺はしばらく絽陽に行って来る」


「そう」


「何か不自由があれば李敬健に言え」


「...」


玉兔はそして隷が残していった言葉を思い出した。たしか『絽陽で何かが変わった』と言っていたはず。


「何かあったの?」


「いや、別段何もない。手間取っていた志旦の首の処置が決まり、離宮に移されることになっただけだ。華応安派の中でもまだ処分が決まっていないものもいる。いろいろと後始末をしなければならない」


「隠さなくてもいいでしょう?」


「隠す?何の話だ」


「さあ。言いたくないのならいいけれど」


玉兔は高楼の窓際に立った。絽陽の方角に目を凝らし、何を隷が視たのか確かめようとした。感情の揺らぎと生気の不足が、視界を遮る。


うっすらと視えるのはなんであろう。黒い気の固まり。黒は冬と北を表す。そこまで視て、玉兔は目眩を感じて柱を掴んだ。


「どうしたというんだ」


「分からない。ただ子隷が何かが視えたと言っていたから...」


「なんと公子は言っていたのだ」


「絽陽で何かが変わったって言っていただけよ。お前に何が起こったのか聞いた方がいいって」


以前の雄元なら自分の目に見えぬ物を信じたりはしなかった。だが、ここに来てからというもの、かんなぎの予言を侮ることはなくなった。


―何かが変わっただと?


雄元は乱暴に玉兔の腕を掴むと高楼の階段を下りた。


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