落陽記
落陽記
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雄元が高楼の前に着いた時、中から隷とそれに侍るかんなぎたちが出てきたところだった。横目で雄元の姿を見ると、囚われの公子は慇懃に拝手した。
雄元は、それを無視して通りすぎ、玉兔を閉じ込めている美しい楼の階段を上った。そしてあまり隷を自由に歩き回らせるのは得策ではなかったと思った。先王が死んだ今、昔のように神の威光を借りた王の威厳は必要ないのである。それどころか、現王、英にいらぬ力を与えるのは、今や興国の影の君主である雄元には危険でさえあった。
「玉兔...」
部屋の戸を開けた雄元の瞳に映ったのは、長椅子に眠りこけている異国の公主。彼が与えた美々しい衣が色を零して床に落ちている。その先に彼女の小さなつま先が床について無防備に晒されいたのを雄元は拾い上げた。
「金烏公子が気を分けて下さるようにとお見えになられたのでございます」
彩季が老いた身を屈めて告げた。
「そうか...」
将軍は玉兔の身体に腕を入れ、その身を抱え上げた。老婆は音も立てずに下がった。思ったより軽い女の肢体。それを寝台に運ぶと、絹の上にそっと寝かした。物憂気な寝顔。唇に掛かった髪を指で払ってやった。
「隷...放っておいて」
寝ぼけてそう言ったのだろうが、雄元はそれに少なからず嫉妬した。あの男は玉兔と同じ九つの太陽。そして王位争いで彼の母や弟は殺され、同じようにここに囚われている。そんな二人が雄元よりも近い存在となっても不思議はなかった。
「玉兔...」
雄元には、欲しかったものが手に入らなかったことは一度たりともない。攻めた国は全て滅び、今や興国は彼のものと言ってもいい。それなのに、たった一人の女を思い通りに出来ないのは、自分がこの女の仇であり、この女が人が触れてはならぬ地に落とされた天帝の子であるから―。
玉兔が九つの太陽の巫女であることを知っている李敬健はしきりに、隷をこの聖地の長の座から下ろし、扱いやすい彼女をその座に据えよと進言していた。しかし、雄元はそれになかなか首を縦に振らなかった。理由は、『玉兔にそこまでの力はない』。
だが、彼は実のところ、彼女を本当に手の届かぬ神の領域にしまい込んでしまうのを恐れていたのである。
「玉兔...」
彼は寝台に掛かる薄物を垂らすと、彼女の横に添い伏した。
触れることは許されない。
ただ、彼女の髪に残る寧宮の香りに酔いしれる。金の柱に麝香(じゃこう)が焚かれたあの寧の宮殿の香り...。血の匂いと麝香は 武人と男を刺激するものだ。
そんなことを思っているうちに、次第に雄元は幻想の中に落ちた。彼女を伴って寧の大地を踏む幻想を...。
きっとその時は煩わしい興国などとは無関係で、一人の男としてこの女をあくまで抱けるだろう。しかし、今はその時ではない。
新王は立ったばかりであり、飢饉は深刻に絽陽に向けて進んでいる。そして西は西夷の脅威にさらされ、力によって急激に大きくなってしまったこの国のつけを雄元が払わずば、誰が払うというのか。
華応安の首を切ったが、まだ陶家に屈せぬ豪族もいる。
玉兔との誓いを叶えるのは容易くなかった。少なくとも雄元が描くようには...。
「玉兔、目を覚ませ...」
でなければ、このままどうかなってしまっても知らぬぞと、雄元は彼女の頬に唇を落とした。
「寝かせて、眠いの...」
「起きろ」
「...。何」
玉兔は片目を開けた。雄元の顔がすぐそこにあるのを見つけると、腕で顔を覆って彼を肘で離した。
「何なのよ」
「...」
「出て行ってよ」
「寧の王宮から運ばれた装飾品を持ってきた」
「...」
「少しは気が紛れるだろう」
玉兔が薄物をめくり入り口あたりを見ると、そこには寧の宮を飾っていた鏡台や机、椅子などが置かれている。中には父が愛姫に与えた鏡、母が使ってたつい立てもあった。
「どうした?嬉しくないのか...」
「...」
全てが彼女の身近だった人の遺品。好きでなかった人も憎らしく思っていた人もこの世にいなければ哀しい。雄元はこれらを寧の人々から強奪してきたのだ。そう思うと、喪失とともに彼には自分の気持ちなど到底理解出来ぬと玉兔は憤った。
「出て行って」
「...」
「出て行ってと言っているのよ!」
雄元の腕の内から離れた亡国の公主が叫んだ。
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