落陽記
落陽記
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『決して振り返ってはなりませんよ』
女は隷にそう告げた。誰かが彼を抱えて走り出した。
―まだ、幼い頃の記憶?
玉兔は隷の不安を感じた。一人になった不安、そして母と思われる、女を案じる不安...。それは隷の過去の不安であったが、玉兔が寧宮で感じたそれと共鳴して知らずしらずに涙がこぼれた。
最期まで『案ずることはない。父がそなたを守ってやる』と言った父や、寧公を守ろうと盾になった禁軍の兵の死に際が蘇るのだった。
だが、そんな心の乱れも突然心と体が切り離されたことによって現実に戻された。
「言ったはずだよ、公主。私の心を覘き視てはならぬと」
無表情の面のような顔は相変わらずだが、隷は明らかに怒っていた。
「あなたが先に覘いたんじゃないっ」
「...。公主。あなたは少し心を隠すという術を憶えた方がいい。そうするつもりがなくてもあなたの場合は視えてしまう」
玉兔は隷の言葉に腹を立てて起き上がろうとしたが、生気を取られた後の身体は彼女の思うようには動かなかった。
「陶雄元は危険だ。あなたが想うような男ではない」
「想ってなんかいない。あの男は寧を滅ぼした張本人よ」
「...そう、そうだね。でもあなたはよく日を視た方がいい。そして大地の風を感じるべきだ。さもなければ、運命が音を立ててすべてを飲み込んでゆく」
「あなたは自分のことを心配していればいいわ」
隷は玉兔の髪から翠玉の髪飾りを抜き取った。そしてそれをくるりと指先で回して、冷たい瞳を向ける。『返して』と言おうとした玉兔だったが、言ってしまえば、自分が雄元になんらかの感情を抱いていると思われる。唇を噛んだ。
「砂漠と草原を感じる」
石が含んだ残像を隷はかき集めて言った。
玉兔は彼の物言いが酷く意地悪いものに聞こえた。だから彼女は精一杯の自尊心をかけて
「隷。あなたは少し心を開くということを憶えた方がいいわ」と睨み返した。
「...」
「何をあなたが企んでいるのかは知らない。ただ、何かにすごくこだわっているのは確か。人間は何かにとらわれてしまうと、自由ではなくなるのよ」
「...。公主、私はとっくの昔からここに囚われられているのだ。それはあなたも同じだろ?」
「いいえ。私は違うわ。私はたとえこの部屋から一歩も外に出られなくても心は自由だもの」
隷はそれに反論しようとした。しかし、窓の外から何かを感じると、そちらに気を移して窓を開けた。風の重さがいつもとは違う。
「感じるか?」
「...」
「絽陽で何かが変わった」
「疲れているの。それに私にはどうでもいいことだわ」
玉兔は興味も湧かなかった。襟の乱れを直すと、瞳を閉じた。絽陽で誰が死のうと、反乱が起きようと、彼女には関係ないことである。だた今は眠りたかった。『少しだけだ』と約束したのに、隷はかなりの玉兔の生気を持っていってしまっていたからであった。
「陶将軍が来たら、何が起こったのか訊ねるといい」
「...」
「何か、私も予測していなかった何かが近づいている...」
玉兔は隷を無視して眠りについた。
copyright©2008椰子実