落陽記

 

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「さっきはすまなかった...」


雄元が玉兔を捜しに出かけたのは既に夕暮れ時であった。細い身体を折り畳んで、玉兔が城壁の上で夕日を見ていた。湖が赤く染まっているのは日の加減のせいだろうか、それとも、引き上げられる屍骸のせいなのだろうか。


玉兔の頬に一筋かかった髪が時折風にさらわれるのを雄元は盗み見た。影が彼女の肩を引きずって披帛(ひはく)とともに揺れている。


「ありがとう...」


城壁に上った雄元が横に座ると、視線を変えぬまま玉兔は小さな声で言った。


「髪飾り、ありがとう...」


「...」


雄元は素直な玉兔に瞳を細めた。そっと伸ばした手が、乱れ髪を拾うとやさしく耳にかけてやった。そして初めて玉兔は雄元を見た。昼と夜の境目。公主の顔の半分が既に夜にとけ始めていた。


「玉兔、お前は寧に帰りたいか」


「...」


「帰りたいのなら、俺がいつかお前をあの地に帰してやる」


玉兔の瞳が見開いた。


「いつか...。今ではないが、きっといつか...」


「嘘」


「嘘ではない」


「嘘は言わないで」


濡れた唇が雄元の言葉を否定した。


「俺がここにお前を連れてきた。だからいつか俺がお前を寧に帰そう」


玉兔が頭を振った。そう彼女をさせるのは、玉兔自身が自分の定めを知っているからかなのかは雄元には分からない。しかし、彼は今まで自分が言葉にしたことを違えたことはなかった。


「誓えるの?」


挑戦めいた瞳。


「ああ...」


「手を出して」


雄元が玉兔の掌に自分のそれを重ねると、彼女は頭から髪飾りを抜き取り、自分の手を刺した。血が赤く点をつくった。


「命あるかぎりにお前に寧の地を踏ませよう」


「もし誓いを違えたら?」


「その時は俺の命をやろう」


雄元は自分でも自分が言った言葉が信じられなかった。なぜここまで彼女を気にかけるのか。命までも賭ける必要があるのか。しかし玉兔を目の前にして言わずにはいられない。


「お前は、代わりに俺になにをもたらしてくれるのだ」


「じゃ、あなたが寧に連れて行ってくれたら私も命をあげるわ」


「命はいらない。心を」


「...」


恋なのかもしれないと雄元は思った。陶羽が彼女を部屋から連れて行った時に激しく感じた苛立ち、そしてこの離宮を王宮にしたらどうかと李敬健が言い出したときも、感じた何か...。それが全てこの恋のせいならば、恐ろしく馬鹿げてはいるが、合点がいく。


「お前の心をくれ」


日が落ちてゆく。玉兔の髪飾りの先から光がもれて閃光を放った。


「...いいわ。もし寧にあなたが私を帰してくれたのなら―」


『愛してあげてもいいわ』と続けようとした玉兔に唇は熱に塞がれた。隷にされたのは違う人の味のする行為であった。波が心の底をすべてもっていく、そんな激しさがあった。


「二言はないな」


自由になった唇に雄元は聞いた。こくりと頷いた顎。将軍はさげていた匕首で自分の掌を切って玉兔の血の上に重ねた。白い紙に零れ落ちた赤い点。玉兔は小さくその紙を畳むと胸の前に瞳を瞑って置き、落ちてゆく太陽の残り火をその中にしまい込んだ。


「さあ」


玉兔が手を放すと紙が城壁から飛んでゆき、ひらひらと舞いながら落ちた。そして湖面に触れるか触れないかの瞬間、それは白鳩となって羽ばたいた。


「鳥になったわ...」


自然な驚きが彼女からもれた。金烏宮の力であるのだろうと落陽を映す甍を公主は振り向き見た。


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