落陽記

 

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緋色の袖が風に羽ばたいていた。


翠玉の髪飾りに蓮の花鈿。首につけられた金の首輪。目の前の少女の勝ち気な瞳がそれらすべての装飾を一点で引き締めて異国の姫の気高さを陶羽に示し、彼の何かを刺激した。


「お前は誰だ」


「お前こそ誰よ」


「...。俺は陶羽。興国丞相、陶勝林(とうしょうりん)の息子だ」


「私は玉兔(ぎょくと)。寧の公主」


陶羽は玉兔の名乗りを鼻で笑った。今はない小国の姫に過ぎないことが分かったからである。頬を強かに叩かれた屈辱から、この青年はようやく自尊心を取り戻し始めた。


「興に滅ぼされた国の公主が何をえらそうにしている。お前こそ無礼だ」


「話にならないわ」


玉兔は陶羽の言葉に腹を立てることさえ忘れて、首を横に振った。そして木に繋がれた雄元の駿馬を見つけると、横乗りに手綱をとった。


「まて!どこに行く」


「どこでもいいわ。ここではないところ。お前のいないところ」


「それは将軍の馬だ」


「そう?」


玉兔は男が轡を取ったのを煩わしそうに馬上から見下ろした。十七、八の男。雄元によく似た顔立ちだが、幼さと純朴さを瞳に残している。そういう幼さを玉兔は好きではなかった。自分が持つ、子供から大人への過渡期をそのまま映しているようで、彼女の苛立をかき立てるのであった。


「助けてもらって礼もお前はないのか」


「...」


太陽の巫女は天を仰いだ。午後を少し過ぎた日差しは彼女に落ち着きをもたらしてくれる。地にはう血がここの空気を変え、聖域を区切る透明の枠にぽっかりと穴をあけ、激流のように地上の穢れが流れ込ませてはいたが、それは玉兔に人間らしい憂愁を心ににじませ、かんなぎではない人である自分を思い出させるのであった。


「一人になりたいの」


玉兔はあの城壁に登ろうと思った。


彼方草原の向こうにある寧の国を憶うにあの場所以上に美しい場所はない。


故国を想い、父母を恋い、帰るところはもうないのだと自分に言い聞かせる、そういう儀式的な時間が今の玉兔には必要だった。髪に挿した髪飾りがそうさせるのかもしれない。時折見せる雄元のやさしさと為政者と武人としての残忍さ。玉兔はそれに振り回されているような気がしてならなかった。


陶羽を見ていると彼女はそんな自分に苛立った。ほんの数ヶ月前まで持っていた何かを失いかけている。そういう気がするのであった。それを恋しいとも思うし、また愚かしいとも思う。


なぜ、陶雄元のような仇を憎めずに、あろうことか草原で落とした髪飾りをわざわざ捜させたことに心が墨絵のようににじんでいくのを止められずにいるのか。


陶羽の持つ、白か黒かはっきりさせたがる性格は、ここのところ中間色を模索し灰色の世界を生きる玉兔に、自分がだんだんと憎んでいた大人の狡さを備えてきていることを否応無しに思い知らされるのだった。


「一人になりたいのよ」


玉兔は馬上からもう一度陶羽に言った。彼は彼女の睫毛に陰がさしたのを見つけると、それ以上何も言えなくなった。陶羽が轡を放してやると、玉兔は馬を駆け出した。子供じみた尊大な態度とは裏腹にある、彼女の内に秘められたものの重みに純粋に彼は惹かれた。




「気に入られましたか」


振り返ったそこにいたのは将軍の右腕、李敬健であった。


「そういうわけでは」


「玉兔公主という寧の姫君です。将軍が連れ帰って目をかけているのです」


「...」


敬健の言葉に含まれた意味が理解できないわけではなかったが、陶羽は彼女の後ろ姿から目が放せなかった。日がじりじりと石畳を焼いていた。どこからか虫の声がした。陽炎が彼女の幻像を揺らして昇っていく。


「さあ、参りましょう。将軍があなたの謹慎をお命じになったのです」


「そうですか」


「処分はお父上が離宮においでになった時、公子英さまとも協議しまして決定します」


「...。私は間違ったことをしたのでしょうか。王に謀反を働く従兄を諌めるのは、間違った行いだったのでしょうか」


「...」


陶羽の拳は石になり、唇は血に腫れた。


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