落陽記

 

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「よろしかったのでございますか」


二人だけとなった室内で、呂雲が遠慮がちに訊ねた。


だが、雄元は何も答えなかった。その沈黙でどれだけこの将軍を陶羽が怒らせているのかが窺える。呂雲は剣の柄を掴んで立ち上がった。


「連れて参ります」


この場合、彼が連れて来るのは玉兔であり、陶羽(とうう)ではなかった。彼女はこの戦の前に将軍が自ら『俺の女だ』と獲物を定めている。それをたとえ身内とはいえ、下官の陶羽が横取りすることは、少なくともこの陶雄元が率いる軍の中では許される行為ではない。


「ほっとけ」


「ですが...」


「ほっておけと言っている。羽も玉兔に何かするほど馬鹿ではない」


「はい...」


「何かしようにも、あの女のことだ、腕を噛んで暴れるさ。それより李敬健はどうしているのか。日暮れまでに死体は片付くのだろうな」


「間に合わすように努めております」


「努めるのではなく、するのだ。血を一滴も宮殿も残してはならない」


「かしこまりました」


神聖なるこの金烏宮。


ここに穢れは禁物である。玉兔は平気そうな顔をしていたが、ここに住む他のかんなぎたちは皆具合を悪くして寝込んでいた。あの公子隷でさえ、『休む』と言ったほどである。


英や絽陽の者たちがここに来る前に、なんとしても正常の清らかなる天の宮殿に彼は戻さなければならなかった。そうでなければ、興国の霊廟を穢したと雄元が批判されることになる。


「王はいかがしている」


「...。あまり芳しくありません。近習のものが言うには、金烏宮は聖域であるために病の進行が遅くなるのだそうですが、穢れによって陛下の体調もまた...」


「玉体に何かあってはならない。少なくとも英さまが到着されるまでは。いいな?医師にもそう伝えよ」


「はっ」


「万一、王がお隠れあそばすようなことがあれば、その時はお前らも一緒に黄泉にお供つかまつれと言っておけ」


雄元の強い語気に呂雲は青くなって拝跪すると出て行った。



静寂。


この離宮に相応しい静けさ。


それは騒がしさになれた陶雄元にはいささか居心地の悪いものであった。わざと彼は脚を揺らしてそれを紛らわせた。机の上の筆が音を立てて転がった。


―馬鹿馬鹿しい。何を俺は案じているんだ


玉兔と陶羽は歳も近い。羽は雄元が既になくしてしまった何かを持っている青年である。もし、自分が玉兔の親族であれば、羽のような男と妻合わせてやりたいと思うだろう。


『馬鹿な...』と雄元は心の中で再び呟いた。あれは巫女なのだ。九つの太陽。地に落ちた天帝の子。女だと思ってはならない存在なのだ、と。


案じる必要など何もない。そう彼は自分に言い聞かせたが心は落ち着かなかった。





「いかがなさいましたか」


暗闇が開かれた戸によって半分明るさを戻した。顔を上げると李敬健が将軍の顔を見つめていた。


「なんでもない」


「陶羽さまのことでございますか」


「...」


「蘇学から使者が参りました。全軍を絽陽に引き返しているとのこと。陶羽さまの勝手な振る舞いの責任は自分が負うつもりであるとのことです」


「それより死体は片付いたのか」


「はあ、あらかた。今、湖に沈んでいるのを引き上げているところです。英さまの前で浮き上がったら大変でございますから」


敬健は笑って言った。そして床に転がっている金の玉璽を見つけると、白い布を袖もとから取り出してそれに直接手を付けずに拾い上げた。意外に軽いと思った。


「陶羽さまはご身内とは言え、ご処分すべきです」


「...」


「戦線離脱とは許しがたきことです。それも将が兵を置き去りにしたなど聞いたこともございません」


「分かっている。叔父上と相談しよう」


敬健が雄元の机の上に玉璽を置いた。まるでそこが尤も玉璽には相応しい場所であるかのように輝いた。


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