落陽記
落陽記
4
玉兔の目覚めは朝日よりも早かった。
逃げられぬように靴を与えられていない彼女は冷たい地べたに足をつけ、一人で営を出た。西から吹いていた強い風が、嵐を東へと追いやってしまったようで、残ったのは絶え絶えの白糸の雲と、体に巻き付くような深い霧。見張りの兵が二人慌てたように矛をもって後をついて来た。
貪欲な大地は、あの大雨を既に飲み込み終わってしまったらしく、玉兔の裸の足を濡らすことはなかった。
果てしなく広がる草原にところどころに浮かぶ低い丘を見つめながら玉兔は雨上がりの早朝にしてはその空気を『ぬるい』と思った。昨日嗅いだあの嫌な死臭をその中に再び感じ取った。
「馬だ」
玉兔を見張っていた兵が西を差して叫んで、彼女ははっとした。しかし、彼女には何も見えなかった。ただ感じるのみ。遊牧の民であるその見張りの兵士には玉兔が死臭を感じることができるのと同じにように、彼には馬が見え、蹄が大地を蹴るのが聞こえるらしいのだった。
「何頭だ?!」
「たくさんだ。五十、いや八十以上だ。早く皆を叩き起こせっ。敵だ!」
二人の兵は玉兔のことなど忘れたように大慌てで雄元の営に駆けていった。ぽつんと取り残された玉兔。瞳を瞑った。顔に当たる風。吉でも凶でなく、ただそこに存在しているだけである。
父母も帰る国ももう存在しない。
ここで死ねるならそれでいい。もう何も驚くことなどないのだ。
懐にしまっていた翡翠の髪飾りを取り出すと髪に挿した。男達が大慌てで剣を腰に差しながら馬に乗る。『何をしているっ!早く来いっ!』と誰かが叫んでいた。それが自分に向けられたものであると気付いた時にはすでに玉兔の小さな身体は浮き上がり、馬上の雄元の胸の中にいた。
「お前は死にたいのか?!」
「......」
玉兔は何も答えなかった。
ただ飛ぶように草を蹴る馬の上で、だんだんと迫り来る死臭の不吉さに身震いをし、朝日と共に姿を現す長い影の一団の殺気におののいた。黒い旗を棚引かせて、鞭を打つ音と男達の掛け声が空(くう)を切り、雄元の呼吸を激しくさせた。
「首だ」と誰かがが叫んだ。玉兔が目を凝らすと、黒い一団の先頭を走る槍の先に首がいくつも刺さっているのだった。それはここに来るまでの間に切り落としたであろう真新しい生首であった。
「西夷でございます」
「敬健、奴らがこんな東まで来るとはどういうことだ」
「分かりません。普通ではないことは確かです。ひとまず逃げられるだけ逃げましょう」
無駄な血は流さないというのが李敬健の主義であった。特に敵の方が優勢で奇襲というなら尚更で、雄元は敬健の馬に鞭を入れ、自分の馬にも叱咤した。だが、千里を走る駿馬も二人乗せては他の駄馬と変わらない。
「まずい、追いつかれるぞ」
玉兔は雄元の言葉に振り返った。黒毛の一頭が風より速く迫っていた。何人かの兵が将軍を守るために剣を抜いた。が、直ぐにその体は藁束のように馬の背から消え落ちる。
「これを持っていろ」
雄元は玉兔に手綱を預けた。両手の開いた彼は弓を引く。キリリと締まる音。ぎりぎりまで引かれ放たれた矢は、槍を持ち替えた西夷の男の頬をかすめた。血を拭った男と玉兔は目が合った。
「伊士羅(いしら)っ」
思わず玉兔は声を上げた。
浅黒い肌。鋭い瞳。幼い頃の面影をそのままに馬を操る男。かつて、玉兔に乗馬を教えて寧公の怒りを買いその額を鞘で殴られ、割られた額の傷が今なお生々しくその面に残っている。
玉兔は握っていた手綱を引こうとした。しかしそれはすぐに雄元によって遮られ、顔を強かに打たれた。切れた唇に玉兔は顔を覆った。
「陶将軍っ!!」
「敬健!ゆけ!お前が来たら足手まといだ』
「しかしっ!」
雄元と伊士羅の剣がぶつかりあった。
「玉兔公主、あなたなのか?!」
伊士羅の問いに玉兔は答える代わりに雄元の剣を持つ腕にしがみついた。雄元の舌打ちは鈍い剣の音にかき消される。
「将軍っ!」
興軍が体勢を整え直して戻ってきた。伊士羅(いしら)には退く以外の選択はなかった。彼の部下はまだ彼方後ろにいた。
「伊士羅っ!置いていかないで」
玉兔の悲痛な叫びは伊士羅に届いたのであろうか。幼い頃の遊び相手の名が草原に飛び散り、人影は無情に大きく弧を描くと次第に小さくなった。
「よかった。どうやら深追いはしてこないようですね」
李敬健の言葉に雄元は胸を撫で下ろし、玉兔は深く失望した。
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