落陽記
落陽記
38
玉兔はため息をついて玉璽を鏡の前に転がした。
こんなものを押し付けられたために、雄元が机を彼女の部屋に運ばせてそこで執務をとっているので、ただでさえ囚われの身であるのに、部屋から出ることも許されなくなってしまったからである。
彼女は暇を持て余して、雄元の屋敷から連れてこられた老女の菜季(さいき)に髪をいろいろ違った型に結わせてみたりしてみるのだが、一向に気に入るようには出来上がらない。
「本当にお前は役立たずね」
「申し訳ございません」
「やっぱりお前などの命を助けてやるのではなかったわ」
玉兔は髪に触れられていた老婆の手をはね除けて、にがにがしく櫛を雄元に向かって投げた。
「...」
「...。なんか言ったらどうなの?!」
「うるさい、黙っていろ。俺は忙しい」
「私は退屈で死にそうだわ」
「本当に死にたくないなら黙っていろ」
「だったら今殺して。退屈だから」
「...」
雄元は玉兔に閉口していた。玉璽を持っているかぎり、その辺をうろうろされるのも心配であるし、かと言って神聖なる玉璽を自分が手元において、批判されるのを避けたかった。
「英さまはすでに絽陽をたった。夜にはつくだろう。それまで大人しくしていろ」
「どうせ絽陽からくるのなら、書物か何かを持ってきてくれればよかったのに」
「...。俺が軍を率いてここに来たのを忘れたのか」
今頃、何も知らずにいた公子英は叔父の陶勝林*から事実を知らされ、驚きと複雑な思いを抱えてこの金烏宮に向かっていることだろう。英が陶家に意見することはないが、あの温和な性格の公子のことである。あまりこの度の雄元の暴走を快くは思わないのは必至。それにどう向き合うかも、面倒な話であるのに、玉兔の退屈につき合う暇は彼にはなかった。
*陶勝林(とうしょうりん):興国丞相(宰相)
『李敬健にこいつの相手をさせようか』と将軍は思ったが、今頃、英が来る前に血なまぐさいものを片付けさせるのに忙しいはずである。雄元は、もしかしたら、金烏公子は体よく玉兔を自分に押し付けたのではないかと思ったほど、この姫君の機嫌は徐々に最悪になってきていた。
「誰かこいつに猿轡でも噛ませておけ」
「...」
そばにいた兵の一人が彼女に近づいて、布を無理矢理噛ませた。抗う公主が大人しくなったことに雄元は心から安心し、そして満足した。じっと雄元を睨みつける玉兔の姿に、彼は立ち上がると、鏡の前の筆に青色を馴染ませ、額に蓮を描いた。
「その髪型をお前は気に入らなかったみたいだが、良く似合っている」
「...」
「これをつければ、機嫌も直るか?」
袖の中から彼が取り出したもの、それは草原で西夷に襲われたときに玉兔が落とした翠玉の髪飾りであった。
そっと髪にそれを差し入れた雄元。
玉兔の瞳が『なぜ?』と訊ねていた。
雄元は、西夷の状況を探らせる兵を国境に向けた時、翠玉の簪が落ちていないか捜させたのであった。それが、首尾よく絽陽に戻ってきたのを、彼は欠けた石を直させて離宮を攻める朝、懐に忍ばせてきた。しかし、そんなことを将軍は説明したくもなく、そのまま背を向け、机に戻った。
「良く似合う」
雄元自身、なぜそのようなことをするのか実はよく分かっていなかった。猿轡をされたときに解けた髪の筋が顔に掛かった玉兔にこの深い碧の石はよく合った。初めて彼女に会ったときを彷彿させる姿は、征服者としての、あるいは男としての心を、申し分なく満たすことだけは、理解していた。
だが、書簡に目を落とすと、雄元は玉兔に煩わされる自分を打ち消した。
「将軍。陶羽さまが、御面会を求めておられますが...」
呂雲が言いにくそうに声をかけた。
「陶羽が?」
陶羽(とうう)は数日前に国境へと向かったはずである。