落陽記

 

36

雄元が王が休む御殿(みあらか)にたどり着いた時には既に一兵の近衛も残ってはいなかった。宦官が矛を構えるのみで、必要以上に肥えた躯が痛々しく連なっていた。


「陶将軍、ここをどことお思いかっ!」


「俺はお前らと話している暇はない。王に拝謁する」


宦官が突き立てた槍を雄元は片手で払いのけると、階段を一歩のぼった。殺すことも容易であったが、宦官ごときを殺すのは力の無駄だと、彼は相手にはしなかった。


「王は休まれておいでないのですぞ」


「お前こそ控えろっ!誰に向かって口をきいているのだ」


雄元の一喝に宦官たちは急に臆病風を吹かせて縮こまった。呂雲が剣を抜いた。緊張が一瞬で空気を凍らせる。互い違いに向けられる剣の先。呂雲のそれが黒ずんで見えるのは、すでにその手で何人もの兵を殺しているからであった。


ところが、そんな緊張を嘲笑うかのごとくに、どこからともなく笑い声が聞こえた。不謹慎なまでの鈴の転がるような声。


そこにいた全員の瞳が御殿の脇に寝そべる麒麟の石像に向けられた。


玉兔...。


「何がおかしい」


「だって、あんなに威張ってた宦官が、お前の一声で腰を抜かしそうなのだもの」


石の麒麟の背に乗って首に両腕を巻き付けたままの玉兔がそう言うと、雄元の部下たちが失笑し、宦官たちは唇を噛んで剣を持ち直した。


「雄元、ついて来るといいわ」


「...」


「王に会うより隷に会った方がいいんじゃない?」


玉兔はそう言うと、雄元の駿馬に飛び乗った。中原の御し方とは違う、西方の馬の扱い方で。普段は気性の荒い雄元の白馬が大人しくそれに器用に足を上げて見せた。


玉璽(ぎょくじ)は隷が持っているのよ」

玉璽:天子の印


雄元はそれを聞くと、王も宦官もどうでもよくなった。剣を突きつけ合う男たちの相間を潜って、呂雲の馬に乗ると『そいつらを縛っとけ』とだけ命じ、衣を翻して馬を走らせた玉兔の後を続く。



垂らしたままの玉兔の黒い髪が目の前で棚引き、そして金の首輪が時折太陽を集めて光を放った。雄元はそれを後ろから追いかけるうちに、たまらなく彼女を自分の腕の中に抱きかかえたくなった。自分でも分からない感情であった。


武具もつけない少女を乗せているのだから当然のことなのであろうが、 玉兔は羽をもったように軽々と馬をあやつり、なかなか雄元は追いつくことは出来なかった。それでも、将軍は呂雲の馬に執拗に鞭を打って彼女を追った。後方でそれに続く呂雲が、愛馬に将軍が鞭を入れる度に顔を顰めるのも気にもせずに―。




「お前は私のことを好きなのね」


下馬した玉兔が馬の鼻先をなでてやりながらそう言った時、雄元は自分のことを言われたのかと狼狽した。だがそれは誤解だと直ぐに分かった。彼女の視線が馬に注がれていたままであったから。『馬鹿な』と雄元は心の中で呟いた。


「気に入っても馬はやらないぞ。女はなんでも欲しがって困る」と いつも以上に雄元は横柄に言った。


「...。別に欲しいと言ったわけではないわ」


玉兔は気分を害したようで、気の強い顔をいっそう鋭くして彼を睨んだ。


「玉璽はどこだ」


「...。こっち」


一つの戸の前に立ち、玉兔は言った。戸に刻まれた五爪の龍。王しか許されぬはずのその印のつく部屋にいる人間、公子隷。彼のことをただの囚われの公子だと思っていたことはもしや間違いなのではないか。


「入って」


戸に触れかけた雄元の手の代わりに、玉兔がそれを押した。



暗い室内。奥から玉兔を呼ぶ声がした。


「公主...」


暗闇に慣れた目が、中を窺うと、椅子に男がかけていた。金烏公子。いや、その髪が黒い。


「将軍もご苦労だった」


金色の衣を纏う、男。子隷。雄元は思わず拝跪したものかと思うほど、優美に、そして厳かに彼の声が響いた。


「玉璽を渡して頂きたい」


「すでに璽書(じしょ)を用意してある。公子英を離宮に迎え、太子にするというのが一通」

*璽書、玉璽(王の印)の押された文書

「...」


「そして、公子志旦には賜死*、というのがもう一通」


*賜死(しし)君主から死を賜ること。(命じられること)


机の上に重ねられた書簡。子隷の顔に影が宿っていた。


「将軍、三通目はなんと書けばいいのかな?陶雄元を宰相に命ずるとしようか?」


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