落陽記
落陽記
35
風がぴたり止まった。
雄元の剣が離宮を守る近衛の将の首先に止まったのもその時であった。
「案内を頼もう」
「将軍、何をなさっているのか分かっていらっしゃるのですか」
「むろんだ。西から西夷が興を侵している。王の身辺をお守りする」
「......」
腹心の部下である呂雲(ろうん)が、将の武器を奪った。縛られた部下を見て諦めたのか、将は近衛の印である短剣を取り出すと、馬上の雄元に投げた。
「陶将軍、申し訳ありませんがご案内は出来ません」
「かまわない」
雄元は舟を用意するように命じた。
離宮内にいる僅かな兵は、雄元を敵か味方か分からぬままにいくつか弓を向けた。宙に弧を描き、水辺に空しく落ちた矢は、藻と並んで水に漂った。そして代わりに、常に最前線へと遣わされる呂雲の矢に一撃で射止められると、屍骸が次々に水底に沈んだ。
キリリと絞られた矢を持つ呂雲の視線が、城壁の白い影に向けられたとき、雄元はその手を遮った。
玉兔。
垂らし髪のまま城壁の上を歩いている。均衡を崩さないようにその手を大きく広げて―。雄元は苦笑した。城攻めされているのに、全く緊張感というものがなく、守備兵が矢を構える上を平気で遊んでいるのである。
「あれは射るな。俺の女だ」
面倒な説明を省きたくて、雄元はそう言った。呂雲は将軍の言葉に頷いて、彼女の横にいた兵の眉間に矢を放った。
玉兔が死んだ男を振り返り、そして矢が放たれた方に顔を移した。髪を一筋唇に挟んでいるのも忘れて立っている少女......。返り血が彼女の白い衣の裾を汚していた。雄元の耳からは音が瞬きの間だけ消えた。
「かかれっ。開城させよ」
誰かが雄元の代わりに鞭を掲げて言った。
「敬健、遅かったな」
「これでも一応、後ろで戦っておりました」
「ならいいが」
「玉兔公主ですね」
「ああ」
「かの姫は戦場が良く似合う」
雄元は『それは穢れが彼女にはないからだ』と答えようとした。が、何も言わなかった。黒い城壁に立つ捕われの姫の美しさに心が奪われたままであったからだとは、雄元自身気付いていなかった。
「やれやれ、ようやく開門のようです」
無数に湖に浮かんだ舟の群れの先から合図の旗が揺れた。
「終わらせよう。日が高くなる前に」
彼らは舟に移った。清い水。雄元はほんの数ヶ月前に玉兔をここに連れて来た日を思い出した。彼女が萌黄の袖をたくし上げて伸ばした白い手が水に筋を引き、さざ波が睡蓮の葉の影に浮かんでは消え、水面(みなも)に玉兔の顔が映ったことを。
そんな記憶も、兵士の遺骸が舟の先に流れ着いたことで穢れて消えた。透き通る水に血が黒く混ざり合う。鮠魚が恐ろしい速さで逃げ回っている上を、舟を漕ぐ兵が行く先を拒む死体を槍で突きながら進む。
「馬は既にご用意してありますので」
「ああ...」
「足下にお気をつけください」
雄元は剣の柄を掴んだ。舟は彼が立ち上がった重心のずれで揺れた。先に離宮内に入っていた呂雲が『おめでとうございます』と拝手して出迎えたのを、将軍は『ああ』とだけ言って横を過ぎた。
「呂雲。我らは王のご身辺を将軍がお守りに参ったのです。他国の城を攻めとったのとは違うことをわきまえて欲しいものですね」
「これは、李敬健さま、失言でございました」
敬健が呂雲を戒めていたが、雄元にはもうどうでもいいことに思われた。彼にとって建前などというものはその程度のものでしかないのであった。轡(くつわ)をとって鞍に飛び乗ると、なにやら言い合って
る二人を残して手綱をとった。
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