落陽記
落陽記
34
隷(れい)が麒麟(きりん)の鼻先を撫でた。気持ち良さそうに瞳を細めた。
「噛んだりしない?」
「しない」
玉兔(ぎょくと)はその様子を見ると、本来持っている好奇心を発揮させ、恐る恐るながらもその体に触れてみた。思ったよりやわらかな質感が、指に伝わった。
「温かい......」
「これは昔、貂(ちょう)の国の霊廟に祀られていた麒麟だ。貂を攻め滅ぼした時、ここに連れてこられた」
「そう」
耳の後ろを玉兔が触れると、麒麟は身震いをして後ろ足で耳を掻いた。その仕草が愛らしくて玉兔がはじけたように笑った。この宮殿に来て初めて彼女は、声を立て白い歯を見せたのであった。隷も少し頬を緩ました。
「乗れないかしら」
「乗る?霊獣に?公主。一応、これは貂の国では神であったのだよ?牛や馬ではないのだ」
「そういうものなの。残念」
人差し指を掲げて隷が何かを唱えると、麒麟は身軽に台から飛び降りて主人の後について来た。初めてこの離宮に来た時、この石像の群れを恐ろしく感じたものだが、こうして正体さえ分かれば、玉兔にはただの動物にしか見えなかった。
「ここにある石像の霊獣はみんな異国から連れてこられたわけ?」
「必ずしもそうではない。興国にも時折聖人が出る。聖人が出れば、聖獣が出る。この前の鳳のように」
「寧にはそんなものはいなかったわ」
「でも何よりも珍しい九つの太陽がいた」
「......」
「それもこんなに若く美しい太陽が......」
隷の指が玉兔の顎を持ち上げた。その瞳の奥底に暗闇が潜んでいた。玉兔は忘れかけていた公子隷に対する警戒心を再び呼び起こした。
「早く夜が明けるといい。そうすれば、あなたを輝く日のもとで見られる」
「......」
隷の手が鎖骨の上の日の印に伸びようとしたのを、玉兔はするりと身をかわした。だが逃げ忘れた髪の先を隷は掴んで放さなかった。暗澹とした囚われの公子の瞳の色に玉兔は何かを感じた。ただそれが何かを明らかにする前に、彼の背越しに朝日紅く昇り始めた。
「朝だわ......」
「......」
玉兔と隷の白い衣が暁に色抜かれる。
「城壁へ行くのでしょう?早く」
玉兔は走り出した。隷も金の足枷を鳴らしながら続いた。
「ごめんなさい。やっぱり乗っていくわ」
息が切れた玉兔は麒麟の角を掴んでその背に飛び乗った。
「さあ。私は鞍がなくても馬に乗れるの」
手を差しのべた玉兔に『それは馬ではないのだ』と隷が言った言葉は届いてはいないようであった。霊獣は身軽に石段を二人を乗せて駆け上った。風が二人の視界を奪う。靄で掠れ気味だった景色がゆっくりとその様を広げてみせたのと、玉兔が片目づづ瞳を明けたのは同時だっただろう。
「なに......」
「......」
「なんなの?」
眼前に現れた景色。それは燃え上がる日輪に火色の旗が碧い地を埋める陶雄元の軍。
押し寄せる人のつくる気に玉兔は目眩がした。それはかつてあの翠玉の髪飾りを頭に挿した日に見た感覚であった。風のように地を駆ける赤き軍。地の軍。それが通り過ぎた後には一輪の野草すら生えずに死にゆくのだと言ったのは誰であったか。
「始まりなのだよ」
東に面を向けた隷。
「公主、これは終わりへの始まりなのだよ」
玉兔は、太陽が東から上るのも、そして彼女がここにいるのも、逆らいがたい力によって全てがが必然的に成り立っているのだと思った。それは吉でも凶でもない。ただ、大きな渦となって彼女を飲み込んでゆくだけなのであった。
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