落陽記
落陽記
33
その夜の玉兔の眠りは深くなかった。
白い衣を軽く羽織っただけで、眠りこけている見張りの脚をまたいで外に出た。離宮中にめぐらされた細い水路の水音だけが彼女の足と並んで歩いた。
そして時折、屋根の合間から空を望んで星を視ようとしたが、雲の流れが速く彼女にはその輝きが届かなかった。代わりに、垂らしたままの髪が風に拾われて唇に飛ぶのを煩わしそうに玉兔は耳に挟んで止めた。
「眠れないのか」
呼び止められた玉兔は体を強ばらせた。が、石で四角く囲った『水鏡』と呼ばれる西方式の小池の縁に隷が腰掛けているのを見ると、胸を撫で下ろして足先を彼に向けた。
「あなたこそ、眠れないの?」
「私は眠らない」
「......」
玉兔は隷の言葉に長い睫毛を瞬いた。
「あなたって変な人」
「そうかな」
「本当に人間なの?」
「さあ」
『水鏡』が反射する月影の中で、隷が肩をすくめる。
「本当は月帝の子とかでないの?」
「それを言うなら天帝の子ではないのだろうか?私は九つの太陽の印をこの身に宿しているのだから」
玉兔は隷の反論に寧の国で耳が痛くなるほど聞かせられた太陽の伝説を思い出した。
それによると昔、天帝には十人の子があり、それぞれが順番に空に昇り地を照らすように命じられていた。ある日、十人の子が言いつけを守らずに全員が一度に空に昇ってしまった。
地はそのために干上がり、人間たちは作物を作れずに疲弊した。怒った天帝は臣に九人の子を射落として太陽を一つだけ空に残すように命じたという。
語る人によってその神話の仔細はまちまちであったが必ず、この世に神秘な力をもつ人間が生まれるのはそのためであると締めくくられ、語り人は巫女姫に『あなたさまは尊い天帝の子の生まれ変わりなのでございます』と深々と頭を下げた。
玉兔は、だがそんな昔話を信じてはいなかった。未だ訪れぬ未来が予感出来たとしても、それはあくまで予感であって、なんらかの神秘的な神の声ではなかった。
むしろ、十人の天帝の王子が一度に空に昇ったという神話に隠された生々しさを絽陽で繰り広げられている公子英と公子志旦の争いに見たし、あるいは金の足枷をかけられ、ここに幽閉されている白髪の公子の陰に彼女は感じた。
「ゆこう」
立ち上がった隷は玉兔の手を引いた。『どこにいくの?』と彼女は見上げたが、月のようなが瞳が落ちてきた。それは微笑みではなかったが、冷ややかな視線でもなかった。言葉にしなくとも、その表情で彼女はかつて連れて行かれた城壁にいくのだと分かって、抗おうのをやめた。
どちらにしろ、この宮殿から出ることはできない。内陸で育った玉兔には泳ぎなどというものは無縁であったし、部屋から抜け出したのも、小さな家出といったところで、思いつきに過ぎなかった。
せめて離宮の外を見られるなら、それで十分満足だったのである。
二人は石畳の上を月の動きと同じぐらいゆっくりと歩いた。雲漢(うんかん)の果てに潜む星の静かさが、二人の白い衣の袖に垂れていた。
そしていつしか玉兔が離宮に初めて来た時に見た神獣の石像の群れにぶつかると、彼女は足を止めた。
「不気味」
「生きているからそう思う」
「生きているって?」
隷は空を見上げた。傾いた月があった。
「夜明けにはまだ時間がある。だからあまり動かないかもしれない」
玉兔には隷の言葉が理解できなかった。
「ここに手を置いて」
隷の掌が玉兔のそれにかさなり、そして麒麟の足に乗せられた。石が夜の冷えを集めてひやりと玉兔の手を掴んだ。
「怖い」
「怖がらなくていい」
瞳を閉じた隷。その重ねた手から何かが玉兔の肢体に流れ込んできた。
九つの太陽のかんなぎの力だと玉兔が気付いた瞬間、それは急に激しく彼女を侵し始めた。玉兔は力の波長に合わせるだけで精一杯で、力の流れを身体の外に洩らさないように気を集中させるのさえ困難であった。
「大丈夫」
隷の白い髪が宙に上がった。玉兔から洩れ出る力が風をつくるのである。袖も大きく浮かんだ。二人の間に円状の風のさざなみができ、それは柱となって天に貫いていった。
「ゆっくりあなたもやるのだ」
だんだんと隷の力に慣れ始めた玉兔に彼は言った。『無理よ』と言おうとした言葉をつぐんで、激しい力の流入から感じる優しい波長を感じ取ると、それに身を任した。心の中に秘められていた感情が急激に血を奮い立たせ、隷の中に逆流していく。あまりの激しさに彼は歯を食いしばったほどであった。
白い光の柱が、夜の闇を一瞬消した。
瞼を恐る恐る開けた玉兔の目に黒髪の隷が映った。驚きで彼女は瞬きを忘れた。
「驚くのはそっちではないよ」
「?」
隷は移した視線の先にあった石の麒麟の鱗が微かにうごめいた。
「動いている」
「公主、言っただろう?生きていると」
「うそ?」
「数百年前に生け捕られた麒麟だ。少し力を貸してやれはまた動きだす」
「信じられない」
麒麟は長い眠りから起こされ、ものぐさそうに足を一歩踏み出した。
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