落陽記

 

32


陶雄元が武具を身につけ鞍上で背筋を正したのは、陶羽(とうう)が絽陽を出た翌日のことであった。


生え抜きの陶家の五千の騎兵をもって、朝霧の中を離宮へと駆抜けた。時折、早起きの農夫が何事かと土に向けていた面を上げる以外は、風のようなその一陣に気付く者もいなかった。


「ずいぶんと馬に乗るのが上手くなったな」


以前は馬車で優雅に指揮していた李敬健もすっかり手綱を持つ手つきが板についているのを雄元は誉めたが


「それは将軍のお陰でございますね......」と嫌味で返された。


「馬車は遅い。どこぞの姫君でもあるまいし、お前のために西方の名馬で*駟車を仕立ててやるほど俺は優しくないからな」

*駟車(四頭立ての馬車)

「女で産まれてこず残念でございました」


「そもそもあの玉兔公主さまですら、馬に乗れるんだ。軍師のお前が乗馬がままならなかった方がおかしい」


「ごもっともで。しかし将軍が離宮を手に入れ、玉兔公主を得た後は、駟車ぐらい用意して差し上げてください。私は*驢車に乗りますから」

*驢車(ロバに引かせた車)

ここのところ何かと李敬健は雄元を玉兔のことでからかう。


――まるで俺が玉兔に気があって王ともども離宮を乗っ取ろうとしているようではないか。


雄元は腹が立ちまぎれに、並んで走っていた李敬健の馬に鞭を入れた。驚いた馬が、慌てて歩調を速めたので、危うく大事な主人を落としそうになった。それを雄元や近臣たちが見て笑った。


「やはり、駟車を仕立ててやるべきだったかな」


すれ違い様に将軍は白い歯を見せた。それが空に輝いた。


夜明け。


始まりである。


今日、この日に自分は興国の運命を変える。そう李敬健は思うと、視線を上げた。東雲(しののめ)の空に厳かに日が昇り、歴史がここで動く。


「離宮が見えてきたぞ」


雄元が振り返った。軍旗が将軍の言葉に煌めいて、追い風に揺れた。


「いい風だ」


「まことに」


風がさあっと湖の回りの悪気を吹き飛ばし、朝の金烏宮は靄一つのこらずに姿を無防備に晒した。


駒を止めた将軍の目配せに、前方の騎兵が湖へとかけた。碧い草原に火色の軍旗と武具が扇を広げるのごとくに散らばってゆく。地を赤く染める騎兵。滅ぼされた国の民は陶雄元の軍を『血の軍』と呼んだ。それは、この鮮やかなまでの火色(ひいろ)のせいでもあった。


たった五千の兵でさえこれほど美しいのだ。五万以上の兵をもって寧は攻められた時、城壁からそれを見下ろした寧王はどんな驚駭(きょうがい)をもってそれを迎えたのだろうかと敬健は風の動きの速さに思いをはせた。


「いくぞっ!」


「は、はい」


「敬健、遅れるな」


将軍の馬がいなないた。


大人しい李敬健の馬が将軍の馬の荒々しさに、一瞬怯んだが、彼は手綱を強く握って離さなかった。蹄が草を蹴って鼓声となり、心の高鳴りとなった左胸を打ち鳴らしていたからであった。


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