落陽記

 


30


「決行は九月末となりました」


数日後の晩に訪れた李敬健がそう言ったとき、陶雄元はそれを『矛盾だ』と思った。


興の神域である金烏宮へと兵を向けるという、信じられぬ暴挙を企てながら、敬健はその吉日を占わせて決めたのである。


天に対する畏怖がないのなら、吉凶など知る必要もないと思うのだが、どうもこの軍師はそうではないらしい。


「卜占するのは当然です。わざわざ凶日に兵を動かしてどうするのですか」


「......。俺にはお前の考えていることはよく分からないね」


「私が骨を焼かせて占うのは、天帝からの肯定を求めているからです。将軍は金烏宮におわす王と興の神々を恐れておられてる。ですが、天帝のお許しさえあれば、すべてが天意。何も不安に思うことはないのです」


「なるほど。物は言いようだな」


雄元は李敬健のしたり顔に半ばあきれながらも、手元の扇を閉じた。月がさやかで密謀には不似合いな夜である。敬健の向こうに見える月影が、まるで何かが見張っているかのような色あいであった。


「将軍、国境にやる兵の件はいかがなりましたか」


「問題ない。華応安も寧から戻ってきた俺の兵が絽陽に留まるのを警戒して、宛国攻略や西夷討伐に回すようにずっと主張していた。まあ、三万程度をそちらにやるということにする。九月末ではあまり時間がない。さしあたって西夷警戒のため国境に移すというのが自然だろう」


話を聞いているのかいないのか、「さようで」といいながら、敬健は迷い込んだ蚊を袖で払っていた。


「敬健」


「はい」


「だが、問題が一つ」


「なんでございましょう」


相変わらず蚊を煩わしそうに手で追う敬健に苛立った陶雄元将軍は、ぱしりと扇でそれを潰した。その音に驚いたように、庭の秋虫が一斉に黙り、李敬健が顔を上げた。


「指揮は陶羽がする」


「......」


「その方が疑われない。それに何より今回の件は大きい。離宮には俺とともにお前に来て欲しい」


つまみ上げた蚊の屍骸。雄元はそれを少し広げた扇に乗せると、開いた窓から外に捨てた。振り返った顔に険しさが増していた。


「大丈夫でございましょうか。陶羽さまはお若い」


「案ずるな。蘇学がついている」


「......。分かりました。私にはどこまでも将軍の供をする覚悟は出来ております」


茶器をそっと机に置くと、李敬健は雄元を真剣な目で見つめ返しし、そしてにやりと笑った。


「将軍は陶羽さまを玉兔公主に会わせるのがご心配なのでしょう」


「なっ!」


「公主とは年もさほど変わらず、羽さまは見目麗しい若人でございますからね」


全く思いもしなかったことを指摘され、雄元は狼狽えて否定した。この度の離宮への兵の差し向けには、色恋のような曖昧な感情は許されない。利害を見て、彼は自分の後陣を守るのは、同族の陶羽であると決めた。


「あの頃の年齢は気まぐれでございますからね。すぐに心変わりする。それは春の空のように移ろいやすい」


「軽口もその辺にしろ。玉兔はあんな女だが、鳳を呼び寄せた偉大なる巫女さまだぞ」


「失礼いたしました」


李敬健は再び茶を口にした。


雄元は、陶羽に兵を授えることにしたことを、敬健が、自分が信用されていないからだと思ったかもしれぬと、ふと案じた。だからこのように玉兔の持ち出して冗談に上手く話を変えたのではと。


事実、李敬健に三万もの兵を与え、雄元が五千で離宮を乗っ取ったとして、裏切られれば全ては終わりである。


雄元の脳裏に、玉兔の『あの男はいつか飼い主の手を噛む。そしてお前は泥の上で自らを滅ぼすの』とう予言が蘇った。


『馬鹿な』と雄元は自らの憂慮を振り消した。


「俺は敬健、お前が必要だ」


「......」


「三万の兵は数だけの脅しだ。俺たちが失敗さえしなければ、そこに存在するだけで、馬鹿でも務まる。だが、五千で離宮を乗っ取るのは、容易くない。軍師であるお前には、悪いが俺と生死を共にしてもらうつもりだ」


「光栄でございます」


敬健は雄元の言葉に席を立って、拝手した。


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