落陽記
落陽記
3
宮殿が跡形もなくなった翌日に興軍は寧を去った。
はじめは玉兔にも馬車が与えられていた。が、絽陽から『緊急に帰京せよ』との早馬がきたので、雄元は、玉兔と馬の苦手な李敬健までもを馬車から引きずり下ろすと、寧の財宝を積んだ軍を置き去りにして、精鋭の五十騎のみをともなって絽陽へと急いだのだった。
「深く関わるつもりなどないのだ」
雨の音を聞きながら、雄元は呟いた。濁った寧の酒。
何か分からぬ力に惹き寄せられるという方が正しいのだとは、しかし冷静沈着な李敬健には言わなかった。
亡国の悲劇の公主というだけでない、太陽のかんなぎの印を持つ玉兔。真の王族と呼ばれる九つの太陽の一人。
それが女であるなら、そういうつもりがなくとも、惹かれてしまってもおかしくないように雄元は思う。
「人間を惑わす不思議な力があるのでございます」
「力?」
「はい。あの公主は天命を持っているのです。人ではないのです」
雄元は敬健の言葉に笑った。
人ではないと言うが、目の前の女は平気で干し肉を食べ、そして温もりのある体を持っていた。そしてその性格は天人や仙人というにはずいぶんと傲慢であり、どこにいでもいる若い公主らしい反抗があった。
「昔、天には十の太陽が一度に昇り、地は焼き付いたと言われております。そのため、天帝が九つの太陽を射落とすように命じられた」
「神話だ」
「さよう。だから地には九つの太陽が存在すると言われているのです」
「確かにそういう話はある。しかし誰もそんなことを信じている奴はいない。体に『日』の文字を持つ人間は白い孔雀と同じだ。単なる瑞兆でしかない。王の内庭に行ったことはあるか?あそこには幾千もの瑞兆が集められている」
雄元は盃を空けた。
「庭を歩く白い孔雀が俺を惑わす不思議な力を見せたことは一度もなかったぞ」
王宮深く足を踏み入れたことのない敬健に玉兔は単なる瑞兆、つまり王と国の威厳を示すためだけに存在しているのだという雄元の言葉をを否定するだけの根拠はなかった。
「敬健、怖いのは何よりも人だよ」
「仰る通りでございますね」
李敬健はずっと盃の中に居座っていた濁り酒を飲み干して『少し酔ったようです』と拝辞した。
雄元はそれに『ああ』とだけ答え、自分にもう一杯酒を注いだ。そして舌一つを武器に一兵法学者から興の軍師までに取り立てられた李敬健にしては、あまりに非論理的な昔話をするものだとその背中に苦笑を向けた。
「玉兔、起きているのだろ?」
「......」
「お前には人を惑わす力があるのか?」
玉兔は雄元の言葉に少しだけ目を開けた。
「さあ」
「あるなら今のうちに言え」
「ない。だけど、あの男はいつか飼い主の手を噛む」
「李敬健が?それは面白い」
「そしてお前は泥の上で自らを滅ぼすの」
揺れる灯りの元で黒い影を作り不吉なことを言葉にした玉兔に陶雄元は持っていた盃を投げた。腹を立てたというよりはその口を封じるためであった。
『心を乱すために出たまやかしだ』と雄元は自分に言った。
そしてそんな詭謀を巧みに使う女がもし普通の巫女であったなら、二度とそんな口をきけぬようにしてやるものをと思った。
しかし白い孔雀を普通の孔雀にして絽陽に連れて帰ってもしかたないのである。
雄元は何の感情も玉兔には見せずに灯りを吹き消すと、枕を抱えた。
十五で初陣を迎え、李敬健(りけいけん)という優秀な片腕に支えられたとはいえ、ほんの数年で興国の将となり、滅ぼした国も遂に三つに及ぶ。
幾度も死を目の当たりにし、自分自身もまた深い傷をおったこともある。そんな男であるというのに、玉兔の一言に寝付つことが出来ぬのは、心のどこかで彼女が口にしたことを恐れているのかもしれないと雄元は思った。
「何よりも怖いのは人だ」
ヌバタマの夜、雄元は心の中でもう一度呟いて眠った。
素材:双子屋工房さま
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