落陽記
落陽記
23
玉兔は太陽が高く真上へと上ると、必ず地壇へと向かう。
地壇とは天を祭る天壇に対して地神を祀る祭壇である。天壇と違って建物のようなものはなく、舞台のようにただ四角い台があるのみで、そこで日を視るのか彼女の課せられた務めだった。
龍が刻まれた石の階段を上れば、降り注ぐ夏の白い光が視界を奪い、首もとの金の首輪を熱した。供は数人の巫女のみ。隷は同じ時間に天壇へと向かっている。天壇が陽を表し、地壇は陰、男女のかんなぎがそれぞれの祈りを捧げ、そして日を視るのだった。
日を視ると言っても、もっとも玉兔のこと。地壇に刻まれた方角を示す円にその日の日の位置を記すだけである。
後は、巫女たちに傘を差し掛けるように命じ寝そべる。問われれば『日を視ている。邪魔するな』と答え、瞳を瞑るのだった。そしてときどき通りすぎていく鳥を感じて、自分も飛べたらいいのに、などと思った。
北の寧の太陽の日差しももっとやさしく、雲の流れも風の動きもやわらかかった。
涙を零すほどの望郷の思いも、帰る所はもうないのだという現実によって憂愁などというなまやさしい感情ではない孤独によって暗く曇る。
「玉兔さま、どうかすこしは真面目になさってください」
巫女の一人が寝ころんでいる玉兔を見かねていさめるが、それはいつものことで
「うるさい」と玉兔は大きな袖で顔を覆った。
『絶対に泣くもんか』と唇をかんで、なぜが雄元の顔が瞼に映った。ここに自分がいるのはすべてあの男のせいだというのに、恨めずに懐かしくさえ思う自分を玉兔は憎く感じた。
『鳥になりたい』
心の強い渇望が、袖から透ける向こうの大空を翔ていった。
鳥になれば自由に寧へと帰ることができる。夏になると羽を休めに北より来る渡り鳥のように何事にとらわれることもなく羽ばたけたらと、少女らしい空想を玉兔は空へと向けた。蒼い丘や、砂漠を越えた先にある肥沃な寧の国へと―。
それはまるで玉兔の願いが届いたかのようであった。
「あれは、なんでございますか」と次々に叫んでは、巫女たちが天を指差した。
「玉兔さまっ!大鳥がっ」
空に黒い影を作って鳥が飛んでいたのである。初め、玉兔はそれを離宮を囲う湖にいる白鷺かと思った。しかしその羽音が違った。
身を起こし、振り向きざまに仰ぎ見えれば、それは大鳥、鳳(ほう)。伝説の鳥。玉兔も初めて見る南方に住むらしい聖獣。真の天子が出現するときにこの世に現れるといわれる。
それが今、長々とした尾を引いて玉兔の真上をゆっくりと通り過ぎてゆくのだった。五色の翼を羽ばたかせて。
「待ってっ!」
玉兔は裸足で走り出した。
「待って、待ってっ!」
高欄に身を乗り出して彼女は叫んだ。肩掛けていた披帛が大きな翼のつくった風のせいで宙を舞った。玉兔の伸ばした手がほんの少しだけ鳳の羽を触れた。
『もう少し!』
玉兔は思わず鳳に飛び付こうとして高欄に足を掛けた。が、巫女たちが慌てて彼女の衣の端を捕らえて止めた。『おやめ下さいませ』と悲鳴ともつかぬ声が彼女を囲って、初めて玉兔は自分の足下の高さに気付いた。
披帛が彼女の代わりにゆらゆらと地に落ちていく。そしてはたりと彼女は我に返った。
「玉兔公主、鳳を捕まえようとしたのか!」
碧い披帛が落ちた先で、壇を見上げたのは隷であった。鳳を見て急いで駆け付けたのだろう。息を切らせて、いつもの白い面を青くして訊ねた。
「あれが......鳳?」
「ええ。確にあれは鳳だった。ほら、山の方へと逃げていく―」
隷は神祇用の白衣で、米粒のような大きさとなって山の端に消える鳥を指差した。隷の白い袖が雲と同じに流れた。
「あなたが呼んだのか」
地壇の長い階段を煩わしそうに隷は上ると、地に三拝九拝すると高欄に腰掛けている玉兔に近づいた。
「私は呼んでなんてない」
「いや、あなたが呼んだから鳳は現れた」
「......」
「公主は、この前から紫雲が視えていた。今は何色が視える?」
玉兔は心の目を開いた。
鳳が飛んで行った方の風を感じた。
「赤いわ」
「公主。『赤』、それは血を乱を意味する」
「戦乱......」
「紫雲は王の気。赤と紫が同時に立ちこめる、それが何を意味するかわかるか分かるかな?」
「......」
隷は答えない玉兔に『賢いね』とその頭を撫でた。そして耳元で『答えたら殺されてしまうよ』と囁いて、彼女の肩に手を掛けた。眼前に広がる興国の碧。玉兔の唇に隷のそれが重ねられ、冷たい瞳が凍ったように微笑んだ。
copyright©2008椰子実