落陽記
落陽記
22
「ご無事でしたか」
「それはこっちの台詞だ」
李敬健は、雄元の轡を取ると、将軍の衣に滲む黒い返り血の多さに言葉を失った。だが雄元の方ははそんな李敬健の様子を笑い飛ばし、剣を部下に預けると馬から降りた。
「お前のところは何人やられた」
「火に逃げ遅れたものが八人ほど」
「俺のところは四人だ」
「あわせて十二人でございますね」
こちらが十二人ならば向こうは最低四倍の四十八人ぐらいは犠牲を出さねばこの騒ぎは収まりがつかぬであろう。いや、もし今回の事が立太子の件と確実に関係しているとするならば、それだけではすまない。
雄元は衣を床に脱ぎ捨てながら、左右の者たちに屋敷の警備を増やすように命じると、李敬健を残し人払いをした。
「西夷どころの話ではないな」
「将軍を襲うとはかなりの勝算がなければなしえぬことです。後宮で何か動きがあったのではございませんか」
「さあ、それはどうか。王に離宮でお会いしたが、未だ太子を誰にするかは決めかねている風だった」
「王が迷うこと自体が勝算なのです。長子である英さまが当然太子となるべきところを、王が若き華夫人に心を奪われ、志旦さまをと、秘かに悩まれている。そのご心中を慮ればこその華応安の暴挙なのですから」
「......。だが難しい。こちらには華応安の仕業だという証拠がない」
「証拠など必要なのですか」
冷たい夜風が通り過ぎ、燭台の火を揺らした。
権謀術数などというものは、矛を背負って戦う雄元の性格に反する。だが綺麗ごとばかりを並べているような年でもない。
顎を指で触れながら、思考をめぐらせた。
「将軍」
しばらく考え込んだ雄元に敬健が待ちきれぬように一歩進み出た。
「焦らすな。今、どこを突けば崩れるか考えていた所だ。そんなに策を練りたいならお前が叔父上の屋敷に行って来い。俺よりずっと役に立つだろう」
「また私に押し付けるのでございますか」
「押し付けるとは人聞きの悪い。俺はお前を信用しているんだ」
「上手くおっしゃるものです」
敬健は大げさにため息をついてみせたが、若き将軍はそれに白い歯を見せ『俺に名案などが思いつくわけがない』と逃げてしまう。
事実、雄元は自分をそれほど明晰だとは思っていなかった。
名家の子息としてそれなりに学問はしてきたつもりだが、好んでしてきたわけはない。李敬健のような優秀な者を部下とし、その才に敬意を払うことで己の足りぬ才覚を補うことができることをこの男はよく心得ている。
そういう将軍の大らかさにため息を欠かさないながらも、敬健もその人柄を愛するのだった。
「玉兔公主は離宮でいかがでしたか」
「いかがも何もない。不機嫌が輪をかけたようだった」
そう言いながらも雄元は彼女の顔が水面に照らされて輝いていた姿を思い出した。北国の白い肌。碧い湖。朱の唇。長々と肩から垂れる披帛*が風の具合によって波になった。
*披帛(披帛):ショール、肩掛け。
「公主はあの態度でございますから、殺されはしませんか」
「まあ、殺したくなるような生意気さだが、あの器量だ、大丈夫だろう。金烏公子も気に入られたご様子だった」
「子隷さまが......」
「それに玉兔はかなり公子を恐れていた。俺のような普通の人間には分からないが、あいつは公子の持つ霊力に敏感なのだろう。あまり大きな態度には出られないさ」
「公子とは一度お会いしただけですが、私も薄気味悪いという印象でございました」
「お前まで何を言う」
雄元は李敬健を戒めた。
かんなぎは天と祖先を祭る。敬いこそすれ、薄気味悪いという言葉は適切ではなかった。
「申し訳ありません。私はもともと興人ではございませんので......」
省かれた李敬健の言葉の端には、この国に置けるかんなぎの表にはならない政への影響力の不満が含まれていた。
「兵がいるかもしれないな」
雄元は背を向けると、一人呟いた。
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