落陽記

 



その日は、軍師の李敬健が言った通り昼過ぎから雨になった。


二月ぶりの雨なのだという。天が忘れていた勤めを急に思い出して、お情けで降らせたような一時的な激しい通り雨であった。


「帰還まえの瑞祥ですね」


李敬健が将軍に言祝いでいたが、陶の営の隅に虎の毛皮を与えられて雨の音を聞いていた玉兔には、いまいましいだけであった。それでも興へと急ぐあまり、車にも乗せられず馬での強行する日々からのしばし解放されたことに、小さな体が毛皮の中へと自然にうずくまるのである。


「この分では明日の朝までは足止めのようだな」


「そのようですね」


「姫君が俺に死臭がすると言ったよ」


「さようで」


「何が可笑しい?」


「何も可笑しくなどありません。将軍が死臭がせずに誰に死臭がしましょうか」


「そうだろう?俺もそう言った」


陶雄元が死臭のことを誤解したようだが、それを玉兔はあえて訂正してやる気にもなれないのでそのまま重い瞳を閉じたまま酒を酌み交わす男達の会話を聞いていた。


「しかし、陶将軍らしくございませんね」


「何が?」


「あまり深くお関わりになってはなりません」


「そんなつもりではないが......」



沈黙が雨音を強めた。


陶雄元にしてみれば、李敬健に玉兔のことを指摘されたことは思ってもみないことであったし、李敬健にしてみれば、そんな風に陶将軍が戸惑うとは予想外でもあった。だから二人とも間をもたせるために盃に手を伸ばし、寧の美酒の向こうにいる玉兔の寝姿に視線を向けた。


興から見て寧国は北西に当たり、目元の涼しい美女が多い。


玉兔もその一人である。


興の国には見られないような格好に髪を結い、紅の絹をまとう少女。


彼女が火の上がる寧の宮殿で、反抗的に柳眉を逆立て勇ましく父である寧公が血を流す遺体から龍の剣を拾い上げた時、その姿を陶雄元も李敬健も美しいと思った。


公の宝剣である。実用というよりも威厳の為に作られた装飾品。


その剣を両手で抱えるように持ち上げ、彼女は取り囲んでいた兵の一人の鼻先に向けた。


まだ十七,八の公主に挑まれた髭面の兵士は驚いて目を大きく広げたが、周囲の興の兵士たちが囃し立てたので、挑戦を受けずにはいられなかった。


そうして始められた公主の最後の抵抗。


玉兔が体の動きを利用して大きな剣を振るさまは、舞を観ているかのようであった。鉄のぶつかり合う鈍い音と、彼女が動く度に衣の立てる絹ずれが軽やかな楽となった。


靴の先についた金の鈴、瞳に宿る最後の寧国の誇り、少女独特のあやうさ。そういうすべてのものが、一枚の絵を作っていた。


しかし突然、その玉兔の剣の先が兵の隙をついて喉元で止まり、彼女が『殺せ。殺さなければお前が死ぬ』とその兵の死を予言したとき、そこにいた全ての人間が、息を飲み、そしてそう予言された男は死ななければならないと思った。


ある種の美の完結。それが男の死であった。


だから雄元は、玉兔の額の汗の雫がゆっくりと床に零れ落ちたのと同時に、剣の柄で彼女を殴り、自ら自分の部下の首を一息に切り落とした。


「将軍っ!何も殺すことはなかったではございませんか」


敬健は軍師らしく部下を切った雄元を咎めたが、


「この男は公主を殺すことを戸惑い、公主は男を殺すことが出来たのにその剣を振るわなかった。死ぬべきなのは先に殺すことを躊躇したこの男だ」と返した。


「しかし......」


「それに、これを見ろ」


倒れている玉兔の腕を雄元は掴むと、その襟を広げてみせた。


「九つの太陽だ」


李敬健も話にのみ聞くばかりのかなた太古の文字で刻まれた『日』の烙印がその白い鎖骨の下にあった。


「これが......」


「王がこの戦に出る前に『寧に瑞兆』という卦が出たと仰せられた。まさかと思ったが......」


「王がお喜びになりましょう」


「帰ろう、興に」


「はい」


陶雄元は玉兔の華奢な体を抱き上げると、そのまま敬健に預け、自分は絽陽に狼煙を上げさせた。


白い煙は、一筋の糸のように地と九天とを結ぶ。


ただ一人、雄元は高楼に上りそれを見つめた。


燃え上がる寧の宮殿では未だに人の欲を満たすことがないらしく、強奪が続いているというのに、落日に次第に紺碧に染める空はこの世のものとは思えぬほど清らかだった。


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