落陽記

 

19


「命を助けたってどういうこと?それにあなたに助けてくれなんて頼んでいないし、ここにいるぐらいなら死んだ方がまし」


「......。可愛いね、公主は」


見た限り、二、三、歳が上ぐらいしか違はないであろうに、隷の視線は酷く大人びていた。玉兔の言葉を世間知らずの公主の我がままにしか思っていないような様子である。金の足枷が重く鳴った。


「手を貸してくれるか?」


玉兔がうんとも否とも言わぬうちに、隷は彼女の手を掴んだ。階段を上るつもりらしい。城壁を見上げると、そのてっぺんに白鷺が羽を休めていた。片足で器用に立って、彼方を見下ろしていた。


「玉兔公主は、昔、興が貂国を滅ぼした時ことを知っているか?その時に、恐ろしく歳をとった九つの太陽が、ここに連れてこられた」


階段を半分も上らぬうちに玉兔は息を切らした。


一方、隷の息は不思議なほど落ち着いたままで、貂(ちょう)のかんなぎの話を始めた。昔話をする老人のような静かな口調であった。


貂が滅んだのは十五年ほど前の事で、玉兔がまだ赤ん坊のころの頃。昔話と言うにはいささか新しいが、石の階段を一歩一歩と上っていくには、そんなゆっくりとした口ぶりが丁度いい。


「歳は百二十三歳といい、地に這うほどの長い髪を持っていた」


「その人もここに捕われて、惨めに生きたんでしょう」


「残念ながらすぐに死んだ」


「どうして」


「興王は不老不死にこだわっている。かんなぎの肝を食べればどんな病も直ると言うので試してみた」


「......」


「こう、生きたまま腹を切ってね」


隷は人差し指で、玉兔の腹の真ん中を縦に線を引いて笑った。『嘘だ』と言う言葉を彼女は飲んだ。


「不老不死になれたの?」


「なれるわけがない。そもそも人間が不老不死を願おうなどと愚かなことだからね」


「死に損ね、その貂のかんなぎ」


「ああ。苦しそうに死んでいったよ。腸がしばらく動いていた」


空が一瞬暗くなった。


白鷺が翼を広げて頭上を横切ったのであった。隷の微笑みが石壁にぶつかり玉兔の耳元に落ちてきた。恐ろしくなった彼女は、逃げるように階段を隷を残して駆け上がった。石の壁に彼女の沓の音が高く響く。


最後の一段を踏みしめると、そこには空の上。


晴れ渡りきれぬ霧のせいで離宮自体が浮いているように感じるのだと気付いたのは、玉兔の息が戻った後である。身を乗り出して地上を見る彼女に隷は


「美しいだろう」と小さく言った。



きれぎれに金烏宮を囲う湖が空の青色を映して輝き、興国きっての肥沃な土地と言われる一帯に濃い碧が広がる。


「きれい」


「玉兔公主には何が視えるのだろうか」


日は西にあった。風は北東。空気は爽やかで、気は落ち着いている。


「何も視えない」


「視えないことはない」


玉兔は瞼を瞑った。


「何も視えないわ」


ここのところ玉兔の力は強くなかった。


心が落ち着かないのである。迷いや恐れが若い女の心をかき混ぜて、不安が占めていしまっていた。朝霧のように、白い幕が覆ってはっきりとした様を示してはくれなかった。


「落ち着いて視るといい」


「......。視えない」


「視えないのではなく、視たくないというのが本当ではないのか?」


隷の冷たい指先が首に触れた。ゆっくりとその手に力が込められ、息の出来ない玉兔はもがいた。


「視えるだろ?」


白い隷の髪が玉兔に後ろから覆いかぶさった。滑るように左手が彼女の襟口に忍び込み、鎖骨に触れた。


「紫色が向こうから視える......」


やっとのことで玉兔がそう告げると、隷の唇が彼女の耳の後ろをかすめ、掌は日の印から離れた。


「いい子だね、公主」


自由になった玉兔の首には、隷の手の代わりに興王の金の首輪がはめられていた。

Next>

copyright©2008椰子実