落陽記

 

18


玉兔は声を聞いた。


それを夢の中で聞いたのか、あるいは誰かが耳元に囁いたのか、彼女にも定かではなかった。


ただ、男のものとも女のものともつかぬ声が、風の音のように過ぎ去ったのだけは覚えている。


「誰?」


瞳だけを玉兔は開いた。体は自由にならなかった。眠っているのだと彼女は思った。


「誰なの?」


もう一度訊ねた。が、やはり、返事はない。疲れてるのかもしれない。未来も過去も何も視たくないと玉兔は心を閉じた。


「眠らせて」


『お願い』と言う声が吸い込まれるように深い眠りの中に消えていったと思う。



翌日彼女は目覚めるまで自分が興王の前で舞った事も神託を下したことも覚えていなかった。宦官が王の下賜品を持って彼女の部屋を訪れたことで、それを初めて知った。玉兔は誰かに自分は操られていたのだと、袖を握りしめた。


公子隷。


あの男以外に考えられない。


蛇のような目を持った興のかんなぎ。九つの太陽。人を操っても操られたことのない彼女がやすやすとその術に嵌ったことを考えれば、力の差は歴然としている。


「王が公主さまに身につけられますようにと」


使者の宦官は恭しく金の首飾りを玉兔に捧げた。人差し指ほどの幅があるそれは首飾りと呼ぶよりも、犬猫に与える首輪と呼ぶ方が正しい。


「いらない」


隷属の証などと容易いものではないはずである。玉兔は背を向けた。それを付ければ、興国のためにしたくもない神託をせねばならない。


「我がままは許されません」


宦官たちが彼女を力づくで押さえつけようとした。こんな辱めを受けるぐらいなら玉兔はあの燃え上がる寧の宮殿で自決すればよかったと、醜い宦官達の手に激しく抵抗しながら思った。


「乱暴はよくない」


だがその時、凛とする声とともに空気が凍り付き、玉兔の瞳に金の足枷が映った。


「金烏公子......」


床から仰ぎ見ると隷は昨日と違って、白の飾り気のない衣で、公子というよりは卜人といった風の装いであった。


「はなしてっ』


隙をつくった宦官たちの手を玉兔は振り払った。隷はそんな彼女に上辺だけの笑みを浮かべると、転がっていた金の首飾りを拾い上げた。


「逃げられぬのはあなたがよく分かってるのではないか」


「そんなものを付けるぐらいなら、死んだ方がましだわ」



立ち上がった玉兔は、誰も信用してはならぬのだと裾の汚れを払うと背筋を伸ばした。


「少し外に出よう」


隷はそんな公主の肩に手を置いて誘った。


「私はどこにも行きたいくない」


「まだそれほど暑くもない。眺めの良い所に案内しよう」


玉兔は、踵を返して外に出た隷の後を仕方なしについて行ったが、宦官たちは何かを恐れるようにそれに従ってはこなかった。静かな朝の光であった。



「昨日はどういうつもり?」


「どういうつもりと言うと?」


「私を操ったことよ」


二人だけになると玉兔は切り出した。石畳はまだ夜の闇を宿したままのように冷たい。これが午後になるころには燃えるように熱くなる。そうなれば、文句の一つも言える元気も玉兔にはなくなる。


「操ったというほどでもない」


「操ったわ」


「王はお喜びだった」


「そういう問題ではない」


「私はあなたの命を助けてやったのだ」


隷の長い白い髪が振り向いて揺れた。


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