落陽記

 

12



玉兔を水の離宮に迎え入れたのは二頭の対の麒麟(きりん)の石像だった。遥か西方に存在するという幻の生き物。鋭い爪と牙、鱗をもつ脚。外部者を拒むように門の前にいた。


「これは角端(かくたん)という黒い麒麟だ。一方が、麒。もう一方が麟」


雄元が説明してくれたが玉兔にはよく分からなかった。どうやら雄雌の対であるのだろうと見当はつけたが、それ以上訊ねようとも思わなかった。


それというのも、階段を上り終わると、そこには左右に亀、獅子、鳳凰、龍など珍獣の対が、朱の柱がそびえる正殿まで無数に並べられていたからである。


それも一頭、一頭が大柄の雄元を上回る大きさで、その威圧感はただならぬものがあった。


『不気味』とまた玉兔は心の中で呟いた。


何かが普通とは異なっていた。玉兔は顔を袖に隠しながら雄元の後ろを歩き、それが何か考えた。


天を仰げば、白い雲が入道となって、夏を告げている。しかし、ここに来るまでの間、うるさいほどであった蝉の声も消え失せて、全ての音が石に吸い込まれる。静けさが涼しさを呼んで、厳かな空気を玉兔の肩に乗せた。


「人がいない......」


人の気配が全くないことに気付いたとき、玉兔は思わず立ち止まった。ここには護衛の兵士も忙しなく走り回る大夫も、着飾った宮女もいない。ただ広い庭に動物の石像が並んでいるだけである。


時折、鮮やかな鳥がけたけたと声を上げて空を横切っていく以外は生きているものは存在が不自然なまでに排除されていた。玉兔が背中に冷たさを感じるのは、汗のせいばかりではないようである。



「どうしたのだ、玉兔」


「......」


女靴の先を飾る鈴の音が止まったことに、雄元が不審に思って振り向いた。


「こわい」


「怖い?お前が?」


父母を目の前で切り殺されたときでさえ、恐れをその顔に表すことのなかった玉兔が唇を震わせる。悲しみを超えた怒りをみなぎらせて父、寧公(ねいこう)の剣をふるったあの少女の面影はどこにもなかった。


「視えない。何も。気持ちが悪いの」


太陽の影が短かった。真上に天があるのだ。石の獅子(しし)がいっそう大きな口を開けて牙を晒しているように玉兔には見えた。


「何もとって食われることはない」


立ちすくむ玉兔に雄元は手を差しのべたが、むろんそれを素直にとる彼女はなく、掌を袖の中で強く握りしめて石像の一部のように動かなかった。


「あまり意地をはるな」


しかし雄元に玉兔の曖昧な恐れなど分かろうはずもなく、ただ乱暴に手首を掴んで無理矢理石畳を歩かせた。それは、彼なりの優しさであり、少し不器用な親しみでもあった。


幾千の血が染み込みすぎてしまった将軍の手は、練り絹のような玉兔のやわらかな手首を鋼の剣を持つごとくに強く握って前を進んだ。この場にもっとも相応しくない穢れを刻んだ手。静けさを穢して空間に歪を作っているのだと玉兔は感じた。


「放して」


「どうした?」


「ここにいたらいけない。お前はここにいてはいけないわ」


すべてが白く、それが確実に雄元を巻き込んでゆく―。そういう感覚のみが、触れている手から伝わっていた。言葉で雄元に説明出来なかった。そもそもどうしてなのか、玉兔にも分からない。


「飲み込まれてしまう」


「玉兔?」


「お前は飲み込まれてしまうわ」


突然の玉兔の取り乱しように困惑した雄元。


「心配ないよ、公主」と声がした。それは雄元のものではなかった。竹林を過ぎ去る風のようなそんな声。玉兔は空耳かと思った。


「金烏公子(きんうこうし)」


しかし雄元が、石像の陰に立っていた影に拝手したことで、初めてそれが風の音ではなかったことに玉兔は気づく。薄柳色の上衣を禁色で縁取った男が一人、玉兔に近づいた。


「公主がここに来るのをずっと私は待っていた」


光が玉兔の視界を奪った。


「私はここの主。子隷(しれい)」


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