落陽記

 


10


「まじないではないけど......」


「なんだ?方法があったのか?」


「人間に使ったことはない」


聞けば、宝殿やら穀庫を火などから守る『封』と呼ばれる術があるのだという。


「それをやってやれ」


「だから人にやったことはない」


「試してみればいい」


敬健にしてみればそんな恐ろしげなものを試されたくはなかった。が、他に方法がないのなら仕方ない。玉兔に『目を瞑れ』と言われるままに、敬健はゆっくりと瞳を閉じた。




「.......。玉兔。それは『術』なのか......」


李敬健が、目を開くとまじまじと自分の顔を見下ろす雄元将軍の顔があった。それもかなりあきれ顔で。


「消えるまでは大丈夫ではないの?消えたら知らない」


恐る恐る手渡された鏡の中の自分を見ると、大きく下手な字で『封』と赤い紅で額に書かれていた。


「あの......」


「家にこもって出かけなければいい。あとは私は知らないから」


玉兔は『私は知らない』を繰り返し言った。予言に対する責任を負うのを恐れるような言い方であった。たぶん、彼女は数多くの予知を寧の国でもし、その多くが現実となって彼女の前に現れた。


寧の滅亡もそうである。


起きることを知っていても防げないこともある。しかし、人は彼女に救いを求め、すがったはず。


雄元も同じことを気付いたのであろう、『不思議な力とはややこしいものだ』と大人になりきれない子供の玉兔を哀れみと愛しさをもって見ていた。


が、そんな思いもつかの間


「暑い、扇いで」


と扇を雄元に投げると、自分は寝台に気怠そうに玉兔が横になってしまったから、一瞬でもそんな風に思ったことを雄元が後悔して拳を上げかけた。


「興は寧より南の国ですから、暑さはことのほか厳しいのです」


一応、厄よけをしてもらった敬健が『まあ、まあ、将軍。私がいたしましょう』と雄元に代わって風を送ってやって、これはまだ興の夏の始まりにすぎず、これからどんどんと暑くなっていくのだと説明した。すると、『じゃ、どうせ幽閉するなら地下牢にして』などと玉兔は言う。


「心配するな、お前を今から王のいる夏の離宮に連れてってやる。少しはここより涼しいだろう」


「涼しいならどこでももういい」


雄元や玉兔のように高貴な生まれではない李敬健は、彼女の暑がる様子に苦笑しつつ、そんな女を思わず扇いでやってしまう自分の卑しさを自嘲せずにはいられなかった。貧しく生まれ、学をもって軍師として陶雄元の客までの這い上がった。しかし、絹をまとうようになってもどこか奴隷のような卑屈さを捨てきれずにいる。


だからか、敬健は、雄元や玉兔のような人間に強い憧れの思いを抱いてしまうのである。


高貴に生まれた人間のみが持つ、気高さと自信。それは王の住まう宮殿の黄金の甍のように輝いていると彼には感じるのであった。




「敬健」


「はい」


「李敬健、お前、水分は控えた方がいい」


離宮に連れて行かれる玉兔を見送りに車までついて行った敬健に、袍に着替えた雄元が笑いをかみ殺して忠告した。


「もう半分『封』が消えている。汗をかかないようにしないと午後には全部消えている」


からからと乾いた笑い。しかし、敬健は青くなった。高く晴れ渡る空よりも青く。


「お待ちくださいっ、将軍、私も離宮にご一緒します」


「この屋敷から出ない方がいいわ」


「好きなだけ滞在してくれて構わないよ、敬健」


『じゃ』と無情にも一人残されてしまった、李敬健。


だんだんと離れていく車の影を見ていると、彼はどうもそれほど玉兔のことを嫌いではない自分を見つけた。雄元に玉兔と深く関わるなと忠告しながら、自分が『封』の字とともに玉兔という女の封印にかかってしまったのは、軍師としてあるまじき失態である。


しかし、すべてはあの寧滅亡の日から始まっていたのだと彼は思った。


火の手の上がる宮殿で公の剣を振り上げた玉兔公主の紅の舞。あれが脳裏に刻まれてしまっているかぎり、自分に真実の自由は存在しないのかもしれないと、ある種諦めの境地に達して、彼女の書いた『封』の字が消えぬようにと日陰へと彼は急いだのだった。


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