落陽記
落陽記
1
目覚めたとき、玉兔(ぎょくと)は騎乗の人だった。
真上から照らす白い太陽が、金の轡を輝かせ視界を奪った。喉は蹄の踏みしめる大地と同じだけ乾き、揺れるままに任された身体は長時間同じ体勢であったためか、石のように硬い。
「気がついたか」
瞼にかかる髪を払いのけようと延ばした玉兔の右手が宙をさまようと、背後から若い男の声がした。そして初めて彼女は自分がその男の腕の中にいることを知った。
「水を」
生きる本能のみが水を求め、与えられた液体を貪った。『酒だ』と気付いた時には、玉兔の胃は熱く焼き付いていた。
「水は腐るが酒は腐らない。寧国では公しか飲めぬ酒だと言う。不味くはないだろ?」
むせ返る玉兔を笑う火色の鎧の主は、兵が巻き上げる砂塵から彼女を守るために頭から被せていた衣を外してやるとその背中を撫でた。
「触らないで」
ところが玉兔が気丈にそれを振り払いのけたので、逆に男の方が驚いて手を引いた。
その瞬間、男の指と玉兔の頭とがすれ違い、翠玉の髪飾りが滑り落ちた。とっさに彼女が『あっ』と小さな声を漏らして馬上から振り返ったが、その時には既に後続の馬の蹄の影に消えていた。
「あきらめろ。たかが簪だ」
男は多少の罪悪感からそう言った。たしかに玉兔にとってもそれは数日前に宮殿の鏡の前で選んだ時まではとるにたらない簪にすぎなかった。
しかし『あきらめろ』などと簡単に言われても、それが唯一、異国の地に質としてゆく彼女に侍って来たことを思えば、燃え上がる寧の宮を何度も返り見たときと同じだけの孤独と郷愁をもたらして、落胆が勝ち気な彼女を涙に変えた。
その涙に堪えるように玉兔は唇を噛んだ。鉄の味がした。簪に支えられていた髪が半分だけ馬の揺れに耐えきれずに崩れ落ちた。
「陶将軍、落とし物ですよ」
俯く顔に、チリリと音を立てて、後から追ってきた鎧も着ていない文官風の優男が欠けた簪を差し出したのを見たとき、玉兔は思わず、それを奪うように受け取った。そして懐にしまい、二人の男の苦笑を誘った。
「陶将軍、そろそろ兵を休ませましょう。馬も疲れております」
「ああ。そうだな」
「公主もお疲れとは思いますが、絽陽の都はもうすぐです。都に入れば湯にもつかれましょう」
玉兔は『ありがとう』と言おうとした言葉をつぐむ。自分を同じ馬に同上させている男が敵の将、陶雄元(とうゆうげん)であるのなら、髪飾りの簪を拾ってきた男はきっとその軍師の李敬健(りけいけん)に違いないと思ったからである。
父母を殺し、寧国を滅ぼした張本人に情けをかけられたからと言って礼を言う必要などない。
「将軍、もしや雨になるやもしれません。西の雲の動きが速い」
若き軍師は陶雄元に西の空を鞭で差し示した。
「雨が止むまで休もう」
「それがよろしいでしょう」
玉兔も空を仰いだ。
風に先ほどまではなかった雨の湿り気を感じた。そしてそれに混じり入る臭い。
「死臭がする」
思わず嫌悪感から玉兔の唇から言葉が零れ落ちた。
「死臭?しない方がおかしい。数日前に俺は国一つ潰したのだから」
「ちがう。穢れの臭い。雨の」
「誰もが返り血を何度も浴びたのだ。穢れていないものはここにはお前ぐらいしかいないだろう」
陶将軍に一笑された玉兔はそうかもしれないと俯いた。
もうここ何日も死臭以外のものを嗅いでいない。雨雲と共に彼女達に迫る何かの予感の気配は弱く、それを確信に感じるだけの根拠はなかった。
「俺も穢れを早く落としたいものだ」
「......」
玉兔は、ため息のようにそう呟いた陶雄元を盗み見た。
二十すぎぐらいの男。
興の名将と呼ばれていることから、彼女はもっと年齢が上かと思っていたのが、自分とは片手ほどしか違わずに、精悍とした躯に爽朗さを併せ持ってるような青年である。
ただ、その手にはその剣に染み込んだ分だけの血の穢れが深く刻まれ、『ああ、この人は穏やかならぬ日々の繰り返しと終わりの線の上に立っているのだ』と禊ぎの日を視えぬのをなぜか玉兔はもの悲しく感じた。
「公主にももう少し我慢して頂こう」
陶雄元はそんな玉兔の思いなど知るよしもなく、急に馬の手綱を引くと長い軍旗の群れから外れた。西方の名馬が自由に放たれたかのように道の脇を駆けた。
玉兔が目を閉じると風の音がした。草原が近い。長い髪が棚引き、白い雲の一部となった。
「さあ。これでもさしてせめて飾るといい」
瞳を開けると、陶雄元が頭に朱の花の枝を差し入れた。
玉兔の知らない、掌を広げたほどの花。禍々しいまでに青い空の色に反した南国の花。夏の香りがした。『いらぬ』と喉元まで出かかった言葉を飲んだ代わりに、玉兔は表情を殺して瞳をそらせた。