聴覚障害の子と音の世界を共有しよう!
聴覚障害の子を音声言語で育てたい聴者のパパとママのぺージ
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A-V advanced - 今日からA-V教育(応用編)=Part 2=
美知子とタニヤちゃんは
特等席でお待ちかね。
童話の再演(読書を楽しむ)
体験とその語彙を予習・復習するのに人形でごっこ遊びをすることは前に述べました。今度は、読書へのいざないとしてのごっこ遊びです。
聞こえない子だから目で見る絵本は好きだろう、と考えがちですが、そうとは限らないようです。美知子の場合は、聴能訓練を始める前は さっさっとページをめくってそれでおしまい。聞こえるようになって、つまり「これは犬だね、ワンワン、かわいいね」と絵について私が話しかけてあげられる ようになって初めて、絵本は娘に何かを語りかけてくる、意味あるものとなりました。
聴能訓練の先生は、簡単なお話を読んで聞かせる時も、そのすぐ後に再演する、子どもにもいっしょに再演させる、という手法をとっていま した。手押し車に自分の宝物を乗せて歩くマックスの話では、教室中を歩き回っておもちゃの手押し車にクッキーの缶、ぬいぐるみ、笛、ボールを積み、ボール が転がり落ちるたびにマックスと同じことばでぬいぐるみを叱ります。マックスが部屋の電球をさわろうと机に椅子を乗せてよじ上るエピソードでは、(危ないので人形で)落ちてケガをする場面を再演して絆創膏を貼ってあげます。
これは何のためでしょう?
もちろん、ストーリーの理解に役立ちます。場合によっては細部を説明しながら展開してあげられます。新しい語彙を導入していくこともできます(「ぐっすり眠りました」の代わりに「昏々と眠りました」「深い眠りにつきました」など)。
複数の人物がいる場合、声音で演じ分ける練習にもなります。『ペーターとオオカミ』の音楽劇では、登場人物ごとの楽器とメロディーによる雰囲気を味わうこともできました。
思い出の多いお話は『白雪姫』です。
何週間もかけて絵本を繰り返し読んだ後、美知子の先生は段ボールや布でセットや衣装を作り、ひとりで人形を操って人形劇を上演してくださいました。「雪の ごとく白く、血のごとく赤く…」「鏡よ鏡…」「ボクのパンをかじったのは誰だ?」など、要の台詞は本のとおり韻を踏んでドラマチックに語られます。美知子もしばらくはその余韻にひたり、一人遊びの間も繰り返して口ずさんでいました。原作の文章そのものを味わうことの、ほんの初めの一歩、というところでしょうか。
さぁ、人形劇の始まり始まり!
チームプレー(情報保障のもうひとつのかたち)
集団生活ははじめから聞こえる子どもたちの中でするのが望ましいのですが、いろいろな事情でろう学校や難聴児学級などで幼稚園・学校生活を始め、ある段階でインテするというケースも多いでしょう。その際には、ことばの先生と担任と親とがチームとしての信頼関係にあることが必要です。ここでは、普通小学校に入学する場合を例にとって、多くの家庭の経験を見てきたベテランのA-V教育家にアドバイスをしてもらいましょう。(Schmid-Giovannini 2000, Sonderdruck der Arbeitstagung in Berlin より抜粋・意訳)
入学する生徒は:
•音声言語を完璧ではないがだいたいにおいて習得していること、つまりまわりによくわかるように話せる、ひとの話を理解できる、先生の指示に従うことができることが必要。
•グループの中でいっしょの作業ができる、グループのすることに合わせられる、同時に自己主張もできることが望ましい。
受け入れる学校側は:
•最良の補聴をしても聴覚障害児には聞こえのハンディがあることを理解し、学習環境をできるだけ整えることが必要。たとえば
•クラスの席の配列を半円形にすると、聴覚障害の子は発言者の顔を見ることができ、読唇で聞こえを補うことができて理想的。半円形でなくとも、その子から見てクラスメートや先生が逆光にならないよう配慮する。
•音楽室のとなりや、運動場の真横で体育の声が聞こえるような教室は避ける。
•教室内の騒音を最低限に押さえるため、窓に布のカーテン、床に絨毯、壁に卵のケースを貼る、椅子の脚にテニスボールを取り付けるといった工夫をする(予算がなくても、家庭の協力で実現できることはたくさんある)。
担任の教師は:
•できるだけはっきりと話す、板書しながら話さない、生徒を指して答えさせるときはその子の名前を言う、生徒の発言が不明瞭だった時は短くまとめて繰り返してあげるなど、小さな思いやりをもって接する。
•FMマイクを使う。
•作業を理解して自力でやっているかどうかを常に確認する。
•書き取りの語彙や作文のテーマなどを事前にことばの先生に伝える。聞こえる子は、ふだんの生活で何気なく耳に挟んだ大人の会話などから関連した語彙や言い回しを入手しているものだ。こういったボーナスのない聞こえにくい子に対しては、ことばの先生は必要な語彙や概念がすでに習得されているかをチェックし、必要とあらば関連した話題を取り上げたり似た言い回しを取り入れるなど、知識を補充して準備する必要がある。作文能力以前の理解の問題でつまずくことがないようにするためであって、前もって課題を練習するためではないことを学校側に理解してもらう。
ここで「ことばの先生」と訳したのは、A-V教育に通じた聴能の先生のことです。通常のA-Vの授業に加え、学校に定期的に来て聴覚障害児の補習授業をし、担任の先生と連絡を取りあうような「派遣教師」である人を指しています。あるいは、言語訓練はスピーチ・セラピスト、派遣教師は「ろう児のための教師 (teachers of the deaf)」という分業をしている場合もあるでしょう。制度はさまざまです。
私たちの住んでいたフランスの場合は、担任の先生は「ふつうに授業についてこられる子」を引っぱっていくのが自分の役目でそれ以上でもそれ以下でもないと心得ていらっしゃる風で、障害のある子は「そういう子どもたちのための学校・施設に行ってほしい」というのが本音じゃないかと思いま す。それに、自分の授業を他人、特に教育を仕事にしている他人に見せるのを嫌います(参観日などのお披露目イベントは別ですが)。何を聞かれても個人的な批判と取り、「問題ありません」のひと言で片付ける担任もいます。その上毎年担任が変わるので、長期的に子どもを見てくれるということがありません。
それでなくても、派遣教師さんたちはどこでもかなり苦労をしていらっしゃると思います。根気よく、こまめに、プロとして堂々と担任と話し、少しずつ信頼を得て、「書き取りや作文の主題を先に教えてください」なんてお願いをしても「出てけ!」と怒鳴られなくなるまでの協調関係を築いて いってくださっているに違いありません。
制度はさまざま、まわりの理解度や(一般的な意味での)情報保障の法制化も千差万別。でも、親の願いはどこの国でも同じです。
聞こえにくいだけ
ふつうの子と同じ
特別扱いしてほしいのじゃない
聞こえる子たちと同じ土俵に上げてほしい
そのための、ちょっとした支えがほしい
「土俵を同じにする、そのためにその子に関わるみんなが協力する」という要求を、情報保障のもうひとつの形、より普遍的で公正で効率的な形として、これからも世界中の親たちは目指していくのだろうと思います。
マックスったら、汚くなっちゃったわね。
髪の毛を洗ってあげましょう。
あれあれ、突然黒雲が出てきて、
あっという間に雨が降り出しました。
みんな、急いでお皿を中に運んでちょうだい!
いいお天気だ!
友だちを招いて
テラスでバーベキューをしましょう。
次に、洗って濡れた髪を乾かしてあげましょう。
外は大嵐。
でもお家の中だって楽しく遊べます。
例2:これも前後がはっきりしている上、〈楽しいバーベキュー〉から一転して〈残念、雨でお流れ〉、さらに〈雨でもへっちゃら、楽しくやろう!〉という感情の流れもあって、よりストーリー性があり、会話の可能性もひろがります
同時に、いわば体験絵日記の「未来版」として行事予定表を作ります。一週間の曜日の下にスーパーや公園やことばの先生の写真を置き/貼り、朝起きると「今日はここへ行って、その後で〜をするのよ。」、夜寝る前には「明日は買い物をすませたら〜をしようね。」と話し合う習慣をつけます。我が家はスナップ写真を入れる透明ポケットを使っていました。
場内が暗くなり、音楽が流れて… いよいよ白雪姫の登場です。
ストーリーが複雑になるにつれて、肝腎なところだけをつないで自分のことばで再現できることも大事になってきます。三歳の美知子が大好きだった『かえるの王様』は、泉・食卓・寝室・結婚式の四場面に簡潔にまとめられて、美知子自身がかえるになって何度も繰り返し上演されました。
少し長くなりますが、写真日記『かえるの王様』のページをご覧ください。
即興劇 「かえるの王様」
(配役:かえる - 美知子, お姫様 - 伯母)
かえるはお城に入ると、
テーブルの上に座って言いました。
「あなたのお皿から食べさせて」
そして
ぐちゃぐちゃとむさぼるのです。
しかも、食事の後では
「あなたのベッドで寝かせて」
と言うのです。
お姫様は心の中で言いました。
「約束したことはしたけれど、
こんなぐっしょりひんやりのかえると
一緒に床につくなんて
まっぴらごめんだわ!」
お姫様は言いました。
「大事な金の鞠を
泉に落としてしまいました。
拾ってきてくれるなら
望みのものを差し上げます」
「私を一緒に家につれて帰り、
あなたのお皿から食べさせ、
あなたのベッドで眠らせてくれるなら
金の鞠を水底から拾ってきましょう」
とかえるは言いました。
お姫様は金の鞠が戻ってくるならと、
かえるの望み通りにすることを
約束しました。
お姫様の大事な金の鞠が
泉に落ちてしまいました。
ぽちゃん!
お姫様が嘆き悲しんでいると
かえるが現れて言いました。
「どうしたの?
なぜ泣いているの?」
かえるは本当に
金の鞠を取ってきてくれました。
お姫様は大喜び!
でも、
かえるを一緒に連れて帰るなんて、
ほんとうはイヤなのです。
お姫様は金の鞠を大事に抱えると、
ひとりでお城へと走り帰りました。
かえるは一生懸命あとを追います。
「待って! ケロ、ケロ
連れて行って!
そんなに早くは走れない!
ケロッ、ケロッ」
お姫様と王子様は
恋におちました。
やがてふたりは結婚し、
幸せに暮らしました。
(ウェディングマーチに合わせて
歩むお姫様と王子様)
=終わり=
お姫様はかえるを指でつまむと
エィッと壁に投げつけました。
するとどうでしょう、
かえるの醜い姿は消えて、
その代わりに麗しい王子様が
現れました。
王子は魔法でかえるにされていた
身の上を打ち明けました。
ストーリー性(ものごととものごとのつながり)
言語力がついていないと、抽象概念の理解が難しい、と言われます。これはどういうことでしょうか。
こんなことがありました。美知子が散歩の途中で屋台のアイスクリーム屋さんを見つけてせがむので、お三時にとひとつ買いました。ところが遊んでからの帰り道、またおねだりです。帰り道いっしょになったSちゃんは「遊んでから帰りに食べましょうね。」とお母さまと約束していたので、その時アイスクリームを買ってもらいました。うちもそうすればよかったねと言ったものの、ハテ、そうできたかな?と考えてしまいました。
「後で」ということばを理解するSちゃんは、アイスクリームを楽しみに待つということができます。でも、「後で」がわからなければ、「今はダメ、後でね。」と言われても「ダメ」と言われたことと同じになってしまいます。美知子はアイスクリームを楽しみに待つことができないのです。
「後で」という時間の概念は、どこから来るのでしょうか。「後で」ということばの先でも後でもなく、まさにことばといっしょにあるのではないでしょうか。 「アイスクリーム」ということばを知らなくても体験によってアイスクリーム大好きにはなれますが、「後で」の場合はそうはいかないようです。
時間の概念と並んで、「AだからB」という原因と結果、「CなのにD」という矛盾などの論理的なつながりは、ことばを介して理解していくことがらです。ここでも体験絵日記が活躍します。
体験絵日記にストーリー性を与えてみましょう。たとえば、時間の流れのはっきりした出来事をピックアップして並べるのです。
例1:よくある場面ですが、時間的前後関係、因果関係もはっきりしている例です
お話作り(描写と想像力)
井上ひさしさんが、「日本の小学校の作文授業はひどい、『~についてどう思いましたか』『~について感想をのべなさい』なんて、大人でもできないような無理難題を要求する。子どもたちは自己表現を学ぶどころか、みんなが一律『~は勇気があってすばらしいと思いました』みたいな大人が期待 する良い子の感想を書くようになるだけだ。作文の基礎は描写。ものごとをよく観察してできるだけ正確に表現する。それがまず大事」というようなことを書いていらっしゃいました。
そう、学校に入れば作文も書かなければなりませんよね。ふだんから、自分のしたこと見たことを順を追って話す、相手にわかるように前後関係を補って話す、といった練習も大事です。
アメリカでお世話になったA-V教育の先生は、「ハーイ、元気? 先週何したの?」と、前回の授業以来何をしたか、思いつくまま話すことから授業を始めました。ビーズをたくさんテーブルの上に置いて、「日曜はみんなでプールに行って」「そこで~ちゃんの家族に会って」「いっしょにサンド ウィッチを食べて」という風にひとつの意味のまとまりごとにビーズを並べていくのです。「チキンとトマトの」サンドウィッチ、「私の親友の」~ちゃん、と いった細部描写もひとつのビーズになります。まず先生自身、それから子どもにやらせて、ビーズの列が長くなった方が勝ち!(この先生は何でもゲームの形でするのが上手でした。美知子がそれにノル年齢だったこともありますが。)
自分のことだけでなく、第三者が主人公であるお話を作ることも楽しいですね。何枚かの絵カードをできごとの順番に並べさせて、何が起きたかを話させる練習や、絵本を読むにも場面ごとに「次はどうなると思う?」「なぜそうなると思うの?」と展開を想像させることもずいぶんとしました。
時にはわざと何の脈絡もないことばをいくつか組み合わせてお話を作るという遊びも。たとえば「バーベキュー・消しゴム・シマウマ」と出題されるとします。「ある時シマウマが一頭いました。シマウマはシマ模様がいやでいやでたまりません。そこで消しゴムを買ってきて、シマ模様を消すことにしました。… … う~ん、え~と、うまく消えないので、その日はバーベキューを食べて寝ちゃいました。できた!」ここで爆笑です。先生と私だけでなく、 本人も笑うのです。
バーベキューという概念を目一杯膨らませて、シマウマという概念も精一杯膨らませて、でも接点が見つからない! これだけでも大変な頭の体操です。まさにジレンマ、どうしよう! ことばの意味が思考を束縛しようとします。この緊張を「だめだ、え~い、こじつけちゃえ!」と一気に飛び越え てしまうには、頭の柔軟さと勇気がいります。それに、自分のことをそうやって笑えることもすばらしいことだと思います。
難聴者は自己中心的で人の話を聞かない、ということを言う人がいます。それは多分に誤解や偏見であったり、ひとりがそうだからと難聴者全員に一般化した暴言だったりするでしょう。その可能性は低くはありません。でも、それと同じくらい、根拠なきにしもあらず…という可能性もあります。なぜなら、聞こえにくいということはそれだけ他の人の言うことを聞く・耳に挟む機会が少ないということ。他の人はこう言えばこう感じるんだな、こういう時はこういう風に言うんだな、こういう時はああ言ったらいけないんだな、といった、対人関係を理解して円滑にする会話術を学ぶ機会が少ないからです。それに、人の話を聞いていてもよくわからない、誤解をして笑われる、といった理由から自分のことばかり話す性向が生まれてくるということもあるかもしれません。
私たち親はことばの教育を意識するあまり、ことばというものを後生大事にしすぎないように気をつけなければいけません。こういうと「何をややこしいことを・・!」と思われるかもしれませんが、聴覚障害の子にジョークのわからない子が多いと言われるのはホントなのです。ことばをあまりにも額面通りに受け取ってしまい、ことばの「あや」、ことばの「うら」、行間に漂う「匂い」や「おかしみ」への感覚が育ちにくい。それがなぜなのか、まだ納得のできる説明をしてもらったことがないのですが、たとえば、聞きたい音と雑音との区別がつきにくいという状況と心なしか似ているような気がします。私たちはことばの「距離感」やわずかなイントネーションの「色合い」といったとてもわずかなヒントを聞き分けて、「皮肉」がわかったり「思わせぶり」に感じたりします。敏感な耳のメカニズムなら聞き分けてくれる「何か」が、人工内耳や補聴器では聞き分けられない・・・そのせいなのかもしれません。
「こういう時ひとはどう思うはずだ」という想像力を養うお話作り、論理的な展開と時には飛躍とユーモアがあってこそ面白くなるお話作り、そういったことばの遊びが、少しでもことばの色合いへの感性を育ててくれたら、と祈ります。