ああ、信仰の薄い者たちよ
マタイ 6:25-34
主イエスは“思いわずらう”わたしたちに、神は創造者、摂理の主として、空の鳥を養い、野の花を育て、野の草を装っている事実を、よく“見なさい”“考えなさい”と語ります。もしそうであるならば、その同じ神はわたしたち人間には創造者、摂理の神としては勿論のこと、それ以上に養い、育て、装って下さるに違いない、と論証します。鳥と草花にとって、神は創造者であっても、天の父ではありません。ところがわたしたち人間には、主イエスが言われるように、神は創造者であると共に、天の父なのです。
この論旨をわかりもしない、悟りもしない、適用しようともしない者に、主イエは、 “信仰の薄い者たちよ”と呼びかけます。口語訳、新共同訳、新改訳もみな、同じように訳しております。
“信仰の薄い者たちよ”という言い方で、主は何を言おうとしているのでしょうか。まず、“信仰が無いものよ”と言われなかったことに注目してください。弟子たちに信仰がないために、主はこころを痛めているのではなく、彼らの信仰が“薄い”ために叱っておられるのです。弟子たちは、イエスをメシア(キリスト)として信じ、すべてを投げ打って従ってきたのです。彼らは、救いの信仰を経験していた人たちであり、キリスト者でした。では主は、何を叱っておられるのでしょうか。
弟子たちは主イエスに対するキリスト信仰は確かにもっていましたが、それは不十分な信仰、すなわち救いの信仰にとどまり、それ以上の広い、深い信仰に至らなかったのです。弟子たちは、次ぎから次へと襲ってくる思い煩いと心配に振り回され、支配されているのが現状でした。主は、その原因を“信仰の欠如”“信仰の不足”“信仰の薄さ” にあると見ておられたのです。
“薄い信仰”とは、キリスト者の生活の一面だけに限定された信仰です。聖書がいう信仰とは、本来魂の救いということだけにとどまらず、キリスト者生活の全体に関わりをもった信仰をさしています。換言すれば、真の信仰とはわたしたちの生活の全面にまで及ぶ信仰であり、天の父は人の基本的必要である衣食住は勿論のこと、生活のすべての面でこころを配っておられる、と信じる信仰です。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
ここで主は問題や心配事という面でも、思いわずらい、圧倒され、打ち負かされているキリスト者に、イエスのもとに来て、主を信頼して、彼が言うことを自分に適用し、それによって生きるようにしなさい、と招いておられるのです。
ですから、“薄い信仰”とは、聖書の言葉をありのままに受け取らず、信じようとせず、それを自分にあてはめて生きようともしない“信仰”のことです。
日語部牧師
岩渕 宏安
2007年9月9日 〜 キリストの山上の説教 〜