人をさばくな
マタイ7:1-6
昨年の7月からはじめられた“山上の説教”も、先週の日曜日で6章が終わりました。今日から7章に入りますが、その前に短く今までの内容をまとめてみます。
1. 5:3-12 キリスト者の性格が描写されています。(クリスチャンはどんな人?)
2. 5:13-16 キリスト者はこの世において地の塩、世の光であることが示されていま
す。
3. 5:17-48 キリスト者がこの世において生きる具体的な指示が与えられています。
4. 6:1-18 キリスト者がこの世にあって生きる姿勢、特に父なる神との交わりの内
に生きる姿が述べられ、すべてのことは隠れたことを見ておられる父な
る神の前に行動することが求められています。
5. 6:19-34 キリスト者がこの世の生活からくる圧力と危険に、どう切り抜いてい
くのか説明されています。そして、今日から学んで行く、7章の前半
は、おもに人との関係を扱っています。
6. 7:1-12 キリスト者の対人関係に関する手引きが語られています。主イエスは
まず、互いにさばき合うという問題からはじめます。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである」(マタイ7:1)
さて主が“さばいてはならない”と言われたとき、何を言おうとされたのでしょうか。キリスト者は、他の人に関してどんな意見も、批評もしてはならないということでしょうか。平和と一致を守るために、それを壊すようなことを一切言ってはならないということでしょうか。しかしそういう解釈自体は、主の言われることと相容れません。“さばくな”と言われた主は、6節でこうも言われました。
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそ
れらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」
もし私が全く“さばく”(審判、判断、評価)ことをしなかったら、どうしてこの6節の主の言葉を実行に移すことが出来ましょう。それが出来るのは、どんな人が豚や犬であることを識別しているからではないでしょうか。ですから、「人をさばくな」という主の言葉は、いかなる意味においてもさばいてはならない、判断、判定に基づいて行動してはならない、ということではありません。
ではどうしてさばいてはならないのでしょうか。主はここで、人を不公平に、偏見をもって、優越感をもって、批判のための批判を楽しむようであってはならないと、忠告しているのです。すなわち、いつでも自分を義とする自己義認の精神です。そのような姿勢が、人のあら探しをし、傷つけるような連鎖反応につながっていくのです。
日語部牧師
岩渕 宏安
2007年9月30日 〜 キリストの山上の説教 〜