断食-自然的発露から
マタイ 6:16-18
断食、今日のクリスチャンにとってあまり聞かれないテーマであり、ましておや実践していることなど、まれにしか見聞きしません。聖書は、どのように断食について語っているのでしょうか。
旧約聖書によると、イスラエルの民はモーセの律法の下で、一年に一度断食(レビ記23:27, 29)することが命令されています。あるいは国家的危機の時(歴代下20:3)、
彼らは進んで断食をしました。
新約聖書の時代になると、パリサイ人は週に二回断食(ルカ18:12)をしました。神が命じているわけではないのに、彼らの宗教の不可欠な要素とし、厳しく守りました。これらの“宗教家”はいつの世にも、聖書にないものを付け加えたり、聖書にあるものを取り除いたりしてきました。
初代教会を見ると、アンテオケ教会がバルナバとパウロを第一伝道旅行(使徒行伝13:2, 3)に送る時、断食をしていました。それに続く教会の歴史をみると、どのような時代にも、どのような国でも、神の聖徒は断食を信じ、実践して来ました。宗教改革者たち、メソジストの創立者ウェスレーもその一人でありました。
さて、主イエスは、断食をどう見ていたのでしょうか。ある日主イエスは、バプテスマのヨハネの弟子から、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食しているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」(マタイ9:14)、と鋭く質問されます。主はこのように答えます。
「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」(マタイ9:15)
「花婿」は、明らかにイエスであり、「客」は、弟子たちです。イエスと弟子たちのおかれている状況は、「婚姻」すなわち祝いの場喜びの時です。悲しむことは、その場に似つかわしくなく、ふさわしくもありません。もし祝いの席で悲しむようなことがあれば、それはあたかも新しい布で、古い着物につぎを当てるようなもの、また新しいブドウ酒を古い皮袋に入れるようなもので、ちぐはぐなものであると、主イエスは言われるのです(マタイ9:16-17)。しかし、花婿であるイエスが、十字架で奪い去られる時が来ます。その時には、弟子たちはおのずと食がすすまなくなるでしょう。ここに断食の自然性を見出します。いや、断食している時でさえ、「自分の頭に油を塗り、顔を洗い」(マタイ6:18)普通であれ、とイエスは命じるのです。敬虔さを、わざと装うことがあってはなりません。
これは、単に断食の問題だけではなく、クリスチャン生活全体にいきわたる原則、すなわち隠れたことを見ておられる父に焦点を合わせるところから、生まれてくる自然の発露という、クリスチャンの生き方なのです。
日語部牧師
岩渕 宏安
2007年7月29日 〜 キリストの山上の説教 〜