復活の主が平凡な日常生活のうちに
ヨハネ 21:1-14
今朝のみ言葉を読むと、そこには20章で主イエスが言われたような、特別な霊的示唆や教訓らしき言葉を見出せません。そこにあるものは、弟子たちのホームグランドであるガリラヤ湖で演じられている日常のありふれた出来事、魚取りの労働です。イエスの話しかける言葉も、日常の生活用語です。「子たちよ、何か食べるものがあるか」(5節)、「今とった魚を少し持ってきなさい」(10節)、「さあ、朝の食事をしなさい」(12節)。このようなごくありふれた毎日の生活臭い状況の中で、ヨハネは何を示そうとしているのでしょうか。その一つは食べる、飲む、働く、休む、寝るという日常茶飯事の生活の中で、甦られたイエスの存在と臨在をお認めするということではないでしょうか。
なんの獲物もなく、疲れて岸辺に近づいた時、イエスが岸に立っておられました。弟子たちは、それがイエスだとは気がつきません。「何か食べるものがあるか」(5節)と聞かれても、誰もイエスに気がつく様子はありません。さらにその見知らぬ人は、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(6節)、と声をかけます。その人の言うなりに網をおろしたとき、「魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった」(6節)ほどでした。
ここまできた時、イエスの愛しておられた弟子のヨハネが、ペテロに「あれは主だ」(7節)と、叫びます。ヨハネは、すでにその前の時点で、うすうす感じていたことでしょう。ヨハネの霊的洞察の敏感さと鋭さです。
どうしてヨハネは他の弟子たちより、復活のイエスをすばやくお認め出来たのでしょうか。一つは、日頃からヨハネがイエスのそば近くにいるように努めていたからです。彼は、主イエスの心の鼓動を感じ取っていたのです。もう一つは、主の使いがマグダラヤのマリヤたちに語った伝言です。
「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに
会えるであろう、と告げなさい」(マタイ28:10)
「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなた
がたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、
そこでお会いできるであろう」(マルコ16:7)
ヨハネは、女性たち(教会)の言うことを信じたのです。
さらに大切なことは、この主の使いの言葉は、すでに十字架にかかられる前に、イエスが弟子たちに語られた、主ご自身の言葉でした。
「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行く
であろう」(マタイ26:32)
「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行く
であろう」(マルコ14:28)
ヨハネは他の弟子たちと一緒になって、主イエスと教会の言葉を素直に信じて従いました。そこに日常茶飯事の中で、復活の主との出会いが経験されていくのです。
日語部牧師
岩渕 宏安
2007年5月20日 〜 イースター 〜