教会(4):祈りに専念している群れ
使徒行伝 2:37-47
「一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、
共にパンをさき、祈りをしていた」(使徒行伝2:42)
使徒の教えと交わりとパンさきに専念した初代教会のクリスチャンたちは、また祈りにも専念していました。他の三つと同様に、祈りもまた彼らの内から出てくる自然で内発的なものでした。祈らなくてはならない、という外からの誘発ではなく、祈らざるを得ない、という内からの衝動でした。
ではなぜ、彼らの祈りが、外からの誘発でなく、内から衝動であったのでしょうか。覚えておられますか。今さっき彼らは「神の変わることのない生ける御言によって」(1ペテロ1:23)新たに生まれ変わりました。神の子になることによって、神の家族の一員になったのです。
母の胎から生まれた時、新生児が新たに経験することは、内から出てくる自然の呼吸です。エルサレムの住民も、ペテロの説教によって、神の家族の中に神の子として生まれました。その時経験したのが、呼吸のような祈りでした。
キリストを信じて新たに生まれ変わった者は、この呼吸という自然で内発的な命と力の躍動を、その内に秘めています。 祈りは、よく呼吸のようなものである、と言われている理由がここにあります。ですからクリスチャンであるなら、呼吸のような自然な祈りが、すでに存在し、生き生きとその人の内に働いているのです。
また、祈りは、よく神との交わりとも言われます。神の家族に生まれてその家族構成に入った者にとって、神は父親のようなものです。生まれたばかりの新生児は言葉こそは話さなくても、話しかけています。親と赤子の自然な交わりが、そこにあります。新生児がやがて幼児に成長し、言葉を少しづつ覚えて、親に語りかけていきます。子供が“お父さん,お父さん”と、繰り返してすがり、呼び求めてくる経験を、親であるならばだれでもがすることでしょう。それが、自然なのです。そしてその交わりこそが、祈りの本質です。
クリスチャンは、父なる神に向かって “アバ、父よ”と呼びかけ、神様との交わりを求めます。そして、それが祈りなのです。
「あなたがたは、、、子たる身分を授ける霊を受けたのである。
その霊によって、わたしたちは“アバ、父よ”と呼ぶのである」(ローマ8:15)
日語部牧師
岩渕 宏安
2007年2月25日 〜 教会 〜