教会(3):交わりに専念している群れ

使徒行伝 2:37-47

 
 
 
 
 

先々週教えられたことは、初代教会のクリスチャンたちは “ひたすら熱心に” 霊的成長をもたらす「使徒の教え」を、 乳飲み子が母の乳を慕いも求めるごとくに、本能的に自然に慕い求めたということでした。


先週教えられたことは、同じ彼らが「パンをさく」聖餐にあずかり、血を流し、身体を裂かれたキリストを覚えるために、“ひたすら熱心に” 集まったということでした。それもそのはずです。イエスの十字架と復活による救いの使信を聞いて、新しく生まれ変わった者が、本能的に自然に主イエスを覚えようとしないはずがありません。

 

さて今朝私たちが教えられたいことは、初代教会の群れは “ひたすら熱心に”「信徒の交わり」をしたということです。普通“交わり”という時、どんな響きや意味合いがあるでしょうか。親しく握手したり、なごやかに話をしたり、お茶や食事をしながら、楽しく過ごすことでしょうか。それらは、よいことには違いありません。しかしそれらは、使徒行伝が語っている“信徒の交わり”ではありません。

 

考えてみてください、イエスの弟子である120人の信徒の交わりに、突然加わってきた3000人が、どういう人々であったか。彼らは53日前“イエスを十字架につけて殺せ”と叫んだ人々でありました。ですからただ単に親しくなったり、有意義な時を持つために集まったのではないことは確かです。

 

今や彼らは、キリストによって神の子とされ、神の家族とされたという圧倒的な感に満たされていました。家族であるなら、交わるために集まるということは、ごく当たり前のことです。交わりがないということの方が、普通でない“機能していない家族” (dysfunctional family)です。

 

使徒ヨハネは、教会の交わりが、本物かどうか知る試金石を記しています。


    「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、

知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている」(1ヨハネ3:14)

 

本当の交わりをしているかどうかは、わたしたちが神の永遠の命にあずかっているクリスチャンかどうか、というテストでもあるのです。

 

クリスチャンになるということが、神の家族になるということであるなら、“ひたすら熱心に ”集まるのは、特別なことではなく、ごく自然なことです。ですから、初代教会のクリスチャンは、当然なこと、自然なこと、当たり前のことをしていたのです。 


日語部牧師

岩渕 宏安

2007年2月18日 〜 教会 〜

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