イエスという人物:その誕生

マタイ1:18-20

 
 
 
 
 

クリスマスがやって来る度に、わたくしは聖書に書かれている最初のクリスマスと、わたしたちの世界が祝っている“文化的クリスマス”との間に、強烈な違いを見ない分けにはいきません。事実、“聖書的クリスマス”と“文化的クリスマス”とは、各々違ったメッセイジを語っています。ですから、本物のクリスマスを知ろうとすうならば、どうしても聖書に帰っていかなくてはなりません。特に「ルカによる福音書」の一章と二章、そして「マタイによる福音書」の一章に焦点を合わせることは不可欠です。


先週、マタイ一章のイエスの2000年間の系図を見てわかったことは、イエスという人物は架空の人ではなく、生身をもって現に生きた方である、ということでした。更に、イエスは2000年間という旧約聖書の歴史を背景にしたイスラエル民族から生まれて来たれっきとしたユダヤ人、それもアブラハムを父祖にもつダビデ王の血統に属する王家の子孫でした。それは、メシア(キリスト)なる救い主が、ダビデ王の子孫から来ると約束され、予言されて来たからです。


今朝は「イエスという人物:その誕生」について見たく思います。系図にしても、誕生にしても、共通することは、歴史的であるということです。想像でもなく、創作でもありません。マタイは、わたしたちの目をイエスの誕生の事実に向けさせます。

「イエス キリストの誕生の次第はこうであった」(マタイ1:18)


イエスの誕生の前後、それはわたしたちが印象づけられてきた、あの平和に満ちたホリデイ気分のクリスマスとは違います。それと全く逆に、はじめてのクリスマスは、マリヤとヨセフの恐れと不安と疑問から始まり、それにつづく決意、決断、信仰、服従、誤解、迫害といった文字どおり波瀾万丈に満ちたものでした。


その時のマリヤの驚き、恐れ、不安、疑問等々を、ルカは巧みに描写しています(ルカによる福音書1:26 – 38)。処女降誕の疑問を提起したのは、マリヤが歴史上はじめての人です。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(1:34)。ここでマリヤは、当たり前の生物学的質問をしたのです。許婚者のヨセフの苦悩、疑い、恐れ、決意は、マタイ1:19 – 25に書かれています。心が引き裂けられるような苦悩の末、彼は離縁(ユダヤにおいては、婚約は法律的な拘束をもっていました)を決断します。


どうして、イエスが生まれる時、処女降誕というようなことが必要であったのでしょう

か。新約聖書の第一頁から、こんなことが書かれてなかったら、どんなに平穏無事であ

ったことでしょう。しかしマタイは、イエスが処女降誕によって生れたからこそ、人を

罪から救う救い主なのだ、と言いたいのです。真の救い主は、ヨセフをとうさない神の

直接的介入による自然を超えた働きと、マリヤをとうしての自然/普通の生物学的妊娠

の二つを、兼ね備えた資格をもっていなくてはならなかったのです。


日語部牧師

岩渕 宏安

2007月12月9日 〜 アドベント (待降節) 〜

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