霊的識別力

マタイ7:1-6

 
 
 
 
 

三回にわたって、人をさばくな、それは自分もさばかれないためである、と教えられてきました。人をさばけば、自らがさばかれる原因をつくり、さらに自分がさばかれる基準までつくってしまうことになるのです。ですから、まず自分を吟味し、“さばく” ことの必要性が強調されてきました。ところが、突然主は、この文脈の中で次のように語ります。


「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるだろう」


今まで語ってきたこととは、相容れないような矛盾した響きをもっているように思われます。どのようにこの二つを調和させることができるのでしょうか。その答えはこうです。主イエスは、人を非難するさばきはいけないと教えていますが、人を判断し、物事を識別してはならないとは命じていません。人のあらをさがし、けちをつけ、非難し、批判し、自らが裁判官になって人の上に立ち、さばきを宣告するようなさばきの座につくことを、主イエスは厳しく禁じられているのです。


とはいえ、そのようなさばきと、識別力をもつということとは全く別のことであって新約聖書を開いてみるならば、識別し、判断しなければいけないことが、そこかしこに命じられているのを見ることが出来ます。そこには、正しく判断し、識別していかないことが、かえってさばかれる元をつくることさえ、語れています。ちなみに、主イエスはこの章の中で、すでに識別することの必要性を強く警告しています。


「にせ予言者を警戒せよ。、、、あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。、、、わたしにむかって“主よ、主よ”と言う者が、みな天国にはいるのではなくただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(7:15, 16, 21)


誤りは見分けられなければならない、判断されなければならない、識別されなければならない、と主イエスは言われるのです。勿論、それは批判のための批判であってはなりません。相手をやっつけて、ぎゃふんと言わせるためではありません。判別し、識別するのは、相手の目からちりをとってあげるためであって、恥をかかせたり、自尊心を傷つけることであってはなりません。


しかし、人の目にあるちりを取り除くためには、まず自分の目にある梁(丸太)を取り除くように努めなければなりません。そうすることによって、はじめて相手を助けることができるのです。そのために、どうしても正しく見る識別力を、 きちんと見る判断力を養っていかなければなりません。


日語部牧師

岩渕 宏安

2007年11月4日 〜 キリストの山上の説教 〜

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