教会(1):使徒たちの教えに専念している群れ

使徒行伝 2:37-47

 
 
 
 
 

教会創立103年記念礼拝を迎えて、使徒行伝2:42-47の聖句が選ばれました。その中から42節に焦点を絞りたく思います。


    「そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、

共にパンをさき、祈をしていた」(2:42)

 

さらに、与えられている説教時間がごく短く限られていますので、その四つの中から一つを選んで、使徒ペテロの説教によって生まれたばかりの初代教会が、一体何のために自分たちの法外なエネルギーと時間を費やしていたか学びたいと思います。  

 

それは使徒たちの教えをひたすら熱心に聞き、それを堅く守っていくためでした。

 

            「一同はひたすら、使徒たちの教えを守り」(口語訳)

      「彼らは使徒たちの教えを堅く守り」(新改訳)

            「彼らは、使徒の教え、、、ことに熱心であった」(新共同訳)

 

何故、3120人ほどのエルサレム住民が、使徒の教えに“ひたすら守り” “堅く守り” “熱心であった”のでしょうか。

 

1) それは使徒ペテロが語った言葉に、引きつけられたからです。イエスの人格とみ業、十字架と復活と昇天についての説教を聞いた人々は、今さっき「キリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(2 コリント5:17)という経験をしたばかりでした。使徒の語った福音と教えは、わたしたちを新しく生まれさせる命と力をもっており、人を根底から変える実力があったのです。

 

ですから、そのことを知って、経験しているエルサレムの人々は、使徒たちの教えをひたすら聞くために共に集まったのです。この時より約30年(A.D.62 – 62)が経って、ペテロは迫害に合っている小アジヤのクリスチャンに、ローマからこう書き送ります。


    「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、

すなわち神の変わることのない生けるみ言によったのである」(1ペテロ1:23)

 

2) 使徒の教えには、新たに生まれたクリスチャンを成長させる命と力が宿っていたからです。ですから、エルサレムの人々は、ひたすら使徒たちの教えを聞こうと、共に集まったのです。ペテロは、小アジヤの艱難にあっているクリスチャンに、こう書き送ります。


    「今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め

なさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」 (1ペテロ2:2)


生まれた赤子は、本能的に母親からの乳を求めます。これはごく自然なことです。もしないならば、それこそ乳飲み子は、身体的に深刻な問題を持っているといってよいでしょう。全く同じことが、使徒の教えを慕い求めたエルサレムの住民にも言えます。クリスチャンになった彼らは本能的に、霊の乳である使徒の教えを求めました。使徒パウロがエペソの教会に書き送ったように、クリスチャンの共同体である教会が、


    「使徒たちや予言者たちという土台の上に建てられたものであって、

    キリストイエスご自身が隅のかしら石である」(エペソ2:20)

 

なら、クリスチャンと呼ばれている者が、使徒の教えである新約聖書に一つも食欲を感ぜず読みもせず、関心がないなどということは不可能のことで、ありえないのです。

 

人を新しく生まれさせ、成長させる使徒の教えを知り、味わった初代教会のクリスチャンたちは、本能的に、ごく自然に霊の乳である使徒の教えを慕い求めて、ひたすら熱心に集まったのです。


日語部牧師

岩渕 宏安

2007年1月28日 〜 教会 〜

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