神の国での生活(4)

心の清い人たちは幸いです

マタイ 5:8

 
 
 
 
 

「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」


「神を見る」、これはあらゆる敬虔な人々の願い、あらゆる宗教の目標、キリスト者にとっては究極の経験です。神を見ることは、あらゆる努力の究極の目的です。では神を見るとはどういう意味なのでしょう。偉大な神の人たちが、このことを模索し、瞑想し、書き記してきました。いつか全く清められた時、すなわち栄化されたときに、わたしたちの肉眼で神を見るということでありましょうか。あるいは、聖化の過程 (現在のクリスチャン生活) でも、実際に肉眼で神を見ること出来るということでしょうか。それとも神を見るということを、心の目で見るという純粋な霊的な意味で言っているのでしょうか。

 

このことに関して、聖書はいろいろな表現で書き記していますので、独断的に一方的なことは言えません。神は創世記の族長たちに、人のかたちをとった天使によって現れています。

モーセは、神に特別に取り扱われた、神と顔と顔を合わせて語り合った仲ですが、「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください」(出エジプト記33:18)と願った時、こう神から答えられす。

 

    「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前に

のべるであろう。、、、、しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。

わたしを見て、なお生きている人はないからである」(出エ33: 19-20)

 

それでも、神はモーセにご自身の姿を見せようとします。しかしそれは、顔ではなくただご自身の後ろ姿を見せようということでした(出エ33: 21-23)。イスラエル民族の解放者でなく、全人類の解放者であられる主イエスも、このように言われました。


    「神から出た者のほかに、だれかが父をみたのではない。その者だけが父を見た

  のである」(ヨハネ6: 46)


    「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神

だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1: 19)

 

誰も神の顔を見た者はなく、主イエスのみがみ顔を見ているとするならば、わたしたちは神を見ることは出来ないのでしょうか。勿論、「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(1ヨハネ3: 2)と、使徒ヨハネが約束しているように歴史と救いの完成のときは、神を見ることでしょう。

 

では今は神を見れないのでしょうか。もし見れないならば、どうしてイエスは、「心の清い人は、神を見るであろう」と言われたのでしょうか。見れるから、主イエスは言われたのではないでしょうか。心で,全人格的 (知性と感情と意志によって) に、神を見れるのです。


日語部牧師

岩渕 宏安

2006年7月23日 〜 キリストの山上の説教 〜

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