姦淫してはならない

マタイ 5:27-30

 
 
 
 
 

“殺してはならない”という戒めと同じように、パリサイ人と律法学者は「姦淫してはならない」という戒めを、単なる身体的姦淫行為に引き下げてしまいました。実際にそのような行為をしなければ、この十戒の一つの戒めを守って、潔白であると思い込んでいたのです。つまり、律法の文字のみを取り上げて、この“姦淫をしてはならない”という戒めを、一つの特定の事柄である身体的 姦淫ということに限定してしまいました。その結果、律法の精神が忘れられ、神の律法の中身が見失われたのです。使徒パウロは、律法の中味を見ないで、律法の文字に拘泥している深刻な誤りに対して、鋭く語ります。


「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(2コリント3:6)

 

使徒パウロがまだパリサイ人サウロのとき(クリスチャンでないとき)、“姦淫するな”という律法の文字を読み、その外面を守っていました。クリスチャンとなって、律法の精神を読み始めたとき、彼は十戒の十番目の戒めによって、七番目の“姦淫するな”という戒めを新しく理解し始めました。


    「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、

ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト20:17)

 

パウロは、“姦淫”(十戒の七番目)と“隣人の妻をむさぼる”(十戒の十番目)を合わせて読んだのです。“むさぼり”の何であるかを律法の精神で理解し始めた時、心の中にあって人を駆り立てる“情欲”というものの意味をわかり始めました。彼にとって情欲とは、むさぼること、欲深く切望すること、際限なくほしがる罪でした。ローマ書で、自分の経験を次のように告白しています。


    「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし

律法が“むさぼるな”と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らな

かったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働

いて、あらゆるむさぼりを起こさせた」(ローマ7:7-8)

 

パウロは、律法の真意を読み始めた時、罪の内在性、罪の力、罪の底なしの深さに気がつき、罪とは単なる行為、行動に関することではなく、心の中にあって人を行動へと駆り立て、神に敵対するものであることを知り始めます。これこそ主イエスが、今朝のみ言葉で言っている「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」ということなのです。

 

身体的姦淫の行為をしなければ、無罪だというのでありません。わたしたちを 情欲とむさぼりに駆り立てる心の中の行為が、すでに姦淫を犯しているのです。


日語部牧師

岩渕 宏安

2006年10月15日 〜 キリストの山上の説教 〜

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