最近、いのちのことば社から、ジュリアス・スコットJr.著『中間時代のユダヤ世界』という本の邦訳が出版された。日本語で読むことができる待望の本書を紹介を兼ねて、中間時代を学ぶことの意義を私なりに書き綴ることにした。
 「中間時代」と聞いて、一体読者の皆さん方はどのようなことを思い浮かべるでしょうか。中間という以上は、何かと何かの中間に決まっている!ここで言う中間時代とは、intertestamental periodのことで、新約聖書と旧約聖書との間の時代のこと。英語で新約聖書はNew Testament,旧約聖書はOld Testament,その間でinter-testamentalとなる。(例えば、国際とは国[nation]と国[nation]との間ということで、international)新約と旧約との中間時代のことを、縮めて中間時代と言う。ただ、近年は学者たちの間では、むしろ第二神殿期という表現の方が好んで用いられる。中間時代と言えば、伝統的には四百年と相場が決まっていたが、旧約聖書がいつ完結したか、伝統的見解に異を唱える学者が今は少なくない。さらに、旧約聖書と新約聖書との中間時代と言う以上は、新約聖書、つまりキリスト教の視点からユダヤ民族の歴史を時代区分することになるので、適切とは言い難い。よりユダヤ的視点から時代区分するには、第二神殿期という表現の方がより適切だとの判断だ。最初にエルサレム神殿が奉献されたのは、ダビデの跡継ぎソロモンの時代であったが、バビロン帝国が攻めてきて、エルサレムは陥落して神殿は破壊された。バビロン捕囚から帰ってきたユダヤの民が再建したのが第二神殿。この第二神殿を、ユダヤの反乱を鎮圧したローマ軍が紀元70年に破壊した。という訳で、「中間時代」と第二神殿期とは、ほぼ期間として重なってくる。
能書きは、これくらいにする。新旧両約聖書66巻こそが神からの啓示であり、誤りのない神のみことばだ、と私たち福音派は信じる。旧約聖書と新約聖書との狭間の時代を学ぶなどと言うのは、福音派に相応しくないと思われるかもしれない。旧約聖書と新約聖書との間には、ほぼ四百年の時間が存在する。日本の歴史で江戸時代が三百年であったことを思い起こすと、四百年が相当な時間経過だった、と実感できる。実際、この四百年の間でユダヤ人を取り巻く環境は一変している。だから、新約聖書を読み、理解する上で、中間時代を学ぶことは有益である。
サドカイ派の人たちが、死者の復活などある訳がない、とイエスのところに来て詰問している。サドカイ派とは、ユダヤ教内の一派で、死者の復活を信じないこと、創世記から申命記までのモーセ五書のみを聖書と認めていたことなど、顕著な特徴のある一派であった。ユダヤ教内には当時、サドカイ派以外にも、庶民に影響力のある一派としてはパリサイ派があった。死者の復活を巡っては、サドカイ派とパリサイ派とは真っ向から見解を異にしていた。パウロが議会で取り調べられた際には、この両派の相違点を最大限活用した。パウロは、自分が身柄を拘束されて取り調べられているのは、死者の復活に関することだ、と主張して、議会を混乱に陥れた。死者の復活を信じるか否かは大きな相違と思われるが、サドカイ派もパリサイ派も当時のユダヤ教内に位置づけられていた。
一口にユダヤ教と言っても、新約聖書の時代には多種多様なユダヤ教信仰がありえたが、ユダヤ教の根幹に拘わることは、以下のようにまとめることできる。神は、唯一絶対であり、この唯一絶対の神が天地万物を造られ、今も生きて被造世界を支配している。その神がアブラハムとその子孫を選び、ご自分の民とされて契約を結ばれた。この神と神の民との契約のしるしとして割礼を施すことが命じられ、後に、律法という形で神の民の行動規範がモーセに与えられた。神は、アブラハムとその子孫には約束の地を与えたが、モーセの後継者ヨシュアの時代に約束の地を所有するためにイスラエル民族は、カナンに攻め入った。そして、ソロモンの時代にエルサレムにあるシオンの山に神殿が建築されたが、神の民はここで礼拝を献げ、定期的に主を祝う祭りを執り行うことが求められた。以上を踏まえれば、多少の相違は容認された。ある意味、ユダヤ教とはユダヤ民族の宗教であった。
サドカイ派、パリサイ派以外にも、例えば、熱心党というユダヤ教の一派もあった。ユダヤ教原理主義者、右翼の過激派と言うと、わかり易いかもしれない。熱心党の人々は、武装蜂起することこそが神に喜ばれることだ、と固く信じて疑わなかった。神の民であるユダヤ人たちが異邦人・異教徒の支配下にいることは本来あるべき姿ではない。武器を持って、異邦人支配者たちに反乱を起こすことが神のみこころで、武力蜂起すれば神が必ずや助けてくださるに違いない、と。古代世界では、宗教と政治とが複雑に絡み合っていたことが典型的に反映している。
ところで、イエスは、サマリヤの女とスカルの井戸端で出会い、「いのちの水」について説き明かした。また、「良きサマリヤ人」のたとえばなしも有名である。サマリヤ人たちはユダヤ人・ユダヤ教徒とは区別される。ユダヤ教からは異端とみなされ、サマリヤ教団という独自の宗教集団を形成していた。エルサレムの神殿ではなく、ゲリジム山に自分たちの神殿を建て、礼拝の場としていた。サマリヤ教団の聖書は、サマリヤ五書と呼ばれ、ユダヤ教の聖書とは言語も異なっていた。いつ頃どのようにして、サマリヤ人とユダヤ人とのが分裂したか、詳しいことは定かではない。ただ、イスラエルの王国はソロモン王の死後に北と南に分割された。この北王国では金の子牛の像が礼拝の対象として導入され、その後アッシリヤに攻められて滅ぼされたことなどは旧約聖書の記述からわかる。亡国の民となった北王国の人々は、方々の国々に捕らえ移され、他民族がイスラエルに強制的に移住させられた。こうして、民族的には混血が進み、宗教的にはさらに異教が根付いて混淆宗教となった。そのために、新約聖書時代のユダヤ人たちはサマリヤ人を蔑視していた。
ところで、イエスが弟子たちと共に生涯の大部分を過ごしたのはガリラヤであった。ガリラヤ地方は地理的にはサマリヤの北に位置する。ガリラヤ地方は、湖で魚採りができ、田園風景が広がる自然の美しい地域であったが、ガリラヤ訛りもあり、エルサレムの人々からは辺境の地として軽く見られた。そのために熱心党の活動の温床ともなった。しかし、基本的にはユダヤ人が住むユダヤ教の地であり続けた。ガリラヤ在住のユダヤ人たちがエルサレムに祭りを祝いに上る際に、サマリヤ人たちから襲撃されたこともあった。そのため、通常ガリラヤ人たちはエルサレムに上る際には、ヨルダン川の東側を旅していた。以上、概観したように、ユダヤ人を取り巻く政治的、社会的、文化的環境は新約聖書の時代には非常に複雑になっていたが、中間時代を学ぶと、新約聖書の理解が深まり、当時の状況を手に取るように、鮮やかに描くことできるようになる。
『中間時代を学ぼう!』
〜新約聖書時代のユダヤ教世界〜